罪としての懐疑

キリスト教は円を完結するために全力を尽くした。そして懐疑はすでに罪であると告白した。人は理性なしで、奇蹟によって、信仰の中に投げこまれるべきであり、さてそれから信仰の中を、最も澄み切って明白な活動舞台にはいったように、泳ぐべきである。 曙光 89 前半

「懐疑はすでに罪である」という構造は、カルトを含め世界中の宗教によくありふれている構造です。

「疑うということは信仰心がない」

そういって、考えることをやめろ、という感じにもっていきます。

これは一方で正しく、一方で誤りです。

なぜなら、「疑い、考える」ということは、この表層上の自我による思考を主体とするため、自我の領域に留まることになりつつ、誰かの主張を鵜呑みにせず、自らを拠り所として捉えるということで洗脳やマインドコントロールを回避する事ができます。

一方、「全く疑わず、考えない」ということは、意図を純化し、自我の領域から脱することにもつながりつつ、誰かの主張を鵜呑みにし、説法者にの都合に洗脳・マインドコントロールされていく恐れがあります。

つまり、他人との関連性の中で疑うということは正しくなります。

本来、聖者たる人たちは、良心に従えという旨や自らを拠り所とせよ、というようなことを言っているはずですが、その一方で他人により形成された、外部の情報により形成された自我を拠り所とすることはできないという矛盾的な要素があります。

少なくとも、権威を信頼の拠り所とし、他人に依存する形での盲信は危険です。

まずは、「伝統的に正しいとされているもの」に「書いてあるから」という理由で盲信することは避ける必要があります。

たった一行の文であっても、解釈可能性はたくさんあります。

ということで、仮にその聖典たるものが本当に正しかったとしても、自称教祖たちの解釈以外にもたくさんの解釈が存在します。

結局、単純で画一的な解釈というものは存在せず、また、解釈以前の正当性自体が曖昧です。

そういう意味では、自らを拠り所とするしかありません。しかしその場合でも、現状の自分の都合や社会的な要素、それらを含んだり排除したりしつつ、可能な限り思考上で純化していく必要があります。

そして、そうした思考を超えて、この体、この意識で体感するしかありません。

疑わずに盲信することは、公式を教えてもらって問題を解くようなものであり、生きる上では楽ですが、説法者の都合の良いようにコントロールされていくリスクが常につきまとっています。

誤謬を完全にマスターしても、誤謬をマスターしたにすぎません。そうして一切の懐疑がなくなったかのように思えても、それはただの洗脳された人。

闇雲に「嘘だ」と思うこともせず、どのような話であっても思索の材料として自らの鍛錬、己の修行に使うに越したことはありません。

罪としての懐疑 曙光 89


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