精神を必要とする者たちはどこにいるか?

ああ!他人に自分自身の思想を押し付けることは、何と私を不快な気持ちにさせることだろう!他人の思想が自分自身の思想と引き替えにちょうどよいときにやって来るような、すべての気分や私の内面のひそかな改心は、どんなに私を喜ばせることだろう!しかし時折もっと高度の祝祭がある。片隅に座り、窮乏した者がやって来てその思想の困窮を物語り、、それによってもう一度その人の手と心を一杯にしてやり、不安な魂を気楽にするということを熱望している聴罪司祭のように、彼の精神的な家や財産を贈ることがいつか許されるそのときである。彼はそれによっていかなる名声をも得ようとしないばかりではない。彼は感謝をも避けたいのである。 曙光 449 前半

 「他人の思想が自分自身の思想と引き替えにちょうどよいときにやって来るような、すべての気分や私の内面のひそかな改心は、どんなに私を喜ばせることだろう!」

この点は、盲点になりがちですが、本を読むとき、誰かの話を聞くとき、密かに潜んでいる、と気をつけながらすごした方がいいかもしれません。

たいていは、自分の考えをねじ曲げられそうになった時には怒りが生じますが、それは考えが、半ば不可抗力的に、または暴力的に、つまりは何かの力関係で「もしかしたら変えざるを得ない」場合によく起こりますが、「相手に勝てない」と見切った時には、それは怒りではなく諦めに変わります。その時に起こることは自己嫌悪と多少の不服であり、もし形勢が変われば爆発的な怒りに変換される可能性も孕んでいます。

ではどんな時ならば、怒りを生じさせず、一種の喜び、恍惚が沸き起こるのでしょうか。

それは自分の中で納得している場合、自発的に「考え方を変えよう」としている場合もありますが、それだけではありません。

同化の動機

ある種の同化、依存であり、相手の考えに同調することによって、相手と一体になったような気分が起こる、というものです。

確かに考えが同じであれば「一種の同化」にはなりますが、「強い相手と同じになった」という「気分」によって同化しているだけで、思考面ではなく、感情面での判断になります。その手前には、感情を何とかしたい、という衝動があり、「弱々しくなっている」のを何とかしたい、という動機があります。

その感情の解消の方法論としての考え方の同化ですから、ろくなものではありません。

つい先日書いた「ルサンチマン」の典型例でしょう。

ある種の「崇高とされる思想」や「ある偉人と同じ考え方」に同化することによって、自らの弱った心持ちを何とかしようとする試みです。

しかし、話をしてくれた相手にとっては「おお、自分の言うことが理解できるのか」と、ある種の情報の伝達、情報の「遺伝」が起こるので、生き物としてはありがたいような現象であり、一種の生殖行動的喜びもあります。これはあくまでそれが、自分に都合の悪いことではなく「自分の主義・思想」などであった場合です。

聞く側は、動機が「奴隷精神」です。

どんな時でも、「弱さ」からの動機なのではないか、仮想の敵をイメージしたりしていないか、注意が必要でしょう。

精神を必要とする者たちはどこにいるか? 曙光 449


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