種族の純化

ニーチェは、ナチス的だという偏見がありますが、ナチスがニーチェを利用しただけで、彼は全然ナチス的ではないどころか、それを批判していました。ニーチェの妹がナチスにハマって、ナチスのイデオロギーに利用されただけです。

いまでもナチスと同じようなタイプの人がいますが、「自分が嫌いだと思っている人の状況によって、自分の気分が変動するなら、自分の気分は相手のコントロール下にある。外界の状況の変更という条件が、心の安穏の条件になる」ということを、一度考えてみたほうがいいでしょう。

よく言う「あなたの為を思って言っている」というセリフは、たいてい自分の都合であり、「本当にあなたのためだ」ということをわかってもらうためにいろいろな説得の方法を模索しますが、先の命題には、その必要がありません。ただの方程式のようなものですから、その裏に何かをどうしようという意図はありません。

相手に自分の主張を聞き入れてもらえなくても、問題はありません。ただそれはそうであって、それによって勝手に苦しむのはその人ですから、こちらには関係ありません。こちらに関係があるとすれば、こちらが相手の状況を条件にしているということになります。

こちらは、そんなことは条件にしていませんから、どうぞ勝手に振り回されていただいて結構ですが、傍目からは憐れに見えるだけです。

ただ、見えるだけなので、それも心の安穏に関係ありません。

共通点がどうした?

関係あるように思ってしまうのは、まだ相手を条件にしているという証拠であり、自我の錯覚の中にいる証です。

すいませんが、ニーチェの残した文章と、ナチスとの共通点を仮に見つけたとしても、見つかったところでそれがどうしたというのでしょうか。

そんなことはテレビ番組程度、老後の余生を送る人が観光地の標識にある解説文を見て「ほーう」と思うのと同じです。

ドキュメンタリーとして、暇つぶしになるだけで、事実関係がどうであれ、今には何の関係もありません。そんなことを意味あることだと思ってしまうのはなぜでしょうか。居酒屋の雑談程度にしか使えません。

そんな知識がいくらあっても、何の役にも立ちません。その知識によって解釈が変わるとするのは、社会的な目線での話です。ある事実関係によって解釈が変わってしまうということは、純化された命題ではない証拠であり、社会的目線というフィルターが入っています。

後世に事実の真偽が裏返る

事実の真偽が後世には裏返るようなことがあります。

事実の真偽(というよりも「正当性」の蓋然性)が裏返ってしまって解釈、結論が変わってしまうようなものは、本質的にあまり意味のない事柄ばかりです。

それが社会の中の取り決めの際の判断材料としてなら機能しますが、哲学的領域に、その手の手法を取り入れてはいけません。

事実であろうがなかろうがどちらでも結論は同じ

そういった純化が必要になります。

神がいようがいまいが、食べたら出るものは出る。

幽霊がいようがいまいが、目を開ければ何かが見えている、目を閉じてもまぶたが見えている、というようなことです。

異文化同士の交じり合い

ニーチェは社会的というよりも個々人の心理的な面を観察していました。社会的な思想、制度などという面よりも、その制度、組織の奥にある根本的な思想に対して、それを信奉する人たちの心理面を観察していた、という印象があります。

そこで、「異文化同士が交じり合えばたいてい悪い方向に行く」というようなことが書かれていたりします。しかしそれは、ある種の考え、思想や文化、習慣であって、社会ではありません。

異文化、それが食文化などであればいいですが、ある種の考え方が混じり合うとどうなるか、それは日本の神仏習合を観察すればよく分かるでしょう。

俗に言えば、欲や怒りのメカニズムと解消法という視点、自我の錯覚による渇望感に振り回されない自己観察法などというモノが、何故か「拝んだら助けてもらえる」という思想になってしまいました。終いには、声を聞き入れてもらうためにと、免罪符のようなものをビジネスのようにしてしまうようになりました。

胡散臭い宗教が利用しそうな「概念」を取り外して真っ白な状態から考える

胡散臭い宗教は、何故か同じラインにブッダもキリストも、下手をすればソクラテスや空海、アポロンなども、「かつてのこの道の人」として出てきます。

そういうことを全部取り外して、真っ白な状態から、考えて、感じてみませんか?と言うようなことをニーチェは伝えようとしていたのでしょう。

イメージの世界、印象としての引用

そう言いつつ、かなりの頻度でギリシャ神話の登場人物などが出てきます。これはその実在を肯定しているという性質よりも、ユングなどが乱発したように、イメージの世界として、印象としての引用でしょう。

ある神々の話を、実在前提で話をしているというより、そういった心的印象として取り扱っています。

だからこそ彼は哲学者というより「心理学者」と呼ぶのがふさわしい、ということになりましょう。

種族の純化 曙光 272

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ