矛盾とパラドクス

今回は、中学生のグレる要因である大人の矛盾について語るわけではありません。

少し学術的で、哲学的な感じです。

矛盾とはなんですか。

昔、苫米地さんが言ってましたが、情報が多過ぎることみたいですね。

一つしか当てはまらない項目に二つ入っているような状態です。

最もわかりやすいパターンは、
「男性であり女性である」と言ったパターンでしょうか。

簡単なことですが、「男性的であり、女性である」というのは、別に競合しません。

だいたい、変なこだわりを持っている人は、こういう点が変な帰結になっていたりします。

「男性的であり、女性である」という構図を矛盾かのように感じて一方を遮断してしまうのでしょう。

それがMacユーザーしか認めないというようなデザイン系の人だと思います。

矛盾というのは基本的に不快なものです。
頭がパニックになってしまうのでしょう。

で、抽象と具体なのですが、情報量を削って、より高いレベルの点に押し上げるのが抽象と言われます。

たとえですが、

「人間」より抽象度の高いものは「動物」です。
「人間」より具体的なのは、「日本人」です。

で、最も抽象度の高いところが「空」などと呼ばれています。
ただ、物理空間では把握や観測ができないと思います。
こんなものは体感でしかないので、わかったようでわからないものですが、
「わかる」という表現自体が少しナンセンスのような気もします。

ただ、個人の体験としては十分に把握できると思います。
空を分かっている/分かっていない、悟った/悟らないの議論は、間違っているというかナンセンスだと思います。

人に証明することはできない上に、人に認めてもらう必要もないのですから。

点や直線は書けもしないし、物理空間での存在は本来的に不可能ですが、数学という情報空間の中では存在します。
でも、あろうがなかろうがそんなことはどうでもいいのです。

そんなことどうでもいい、と本当は思っていますが、僕は違和感を大切にします。
怒り、苛立ちすらも楽しんでしまえばいいのではないでしょうか。

よく読んで見れば分かること

聖人君子という言葉があります。
特に宗教上の偉い人は誰にでも優しくて、全ての人を愛し、嫌いな人などいない、という一般的な認識があると思います。

確かに優しいと思います。
全ての人を愛しています。
でも、イエスはパリサイ人をボコボコに論破して、字面を追えば罵声を浴びせています。
しかし、戦争を起こしたりはしていません。殴りもしませんでした。
これが聖人君子のあるべき姿ではないでしょうか。

嫌いな人を徹底的に嫌うこと自体は悪いことではない、という例だと思います。

パラドクス

さて、脱線寸前のここで、面白いかもしれないパラドクスをおひとつ。

パラドクスとは、こっちだと思っていたらあらあらあら、あっちでした、というパターンです。
ウィキからでも引っ張りましょうか。

正しそうに見える前提と、妥当に見える推論から、受け入れがたい結論が得られる事を指す言葉である。

官僚さんや会社の偉い人が陥りやすいパターンです。

官僚さんは自分たちが作れる省令や通達によって、国民、企業等をコントロールできる、と思っています。
そしてそのコントロールできる権限に酔いしれています。

企業の偉いさんは、自分の持つ人事権などで従業員をコントロールできます。
自分の嫌いな人を左遷することによって、自分の力に酔いしれています。

これは自分には力があり、自分の気分で周りをコントロールできる、ということに酔っていることになりますが、
よく考えてください。

自分の気分を他人に依存しています。

たとえば、自分の嫌いな部下が言うことを聞かない、とします。
じゃあ気分が悪くなりますよね。いつまでも気分が悪いですよね。
左遷か減給にでもしてやろうかと思うと思います。
実際、せめて怒鳴らないと気が収まらない、というパターンでしょう。

でも、それは自分の力に酔っているからです。

自分より下だと思っている人の状況によって、自分の気分がコントロールされている状態です。
自分がコントロールしていると思っている人に、自分の気分の舵取りをさせているのです。

別に叱ることもクビにすることもいいことだと思いますが、
今一度、実は自分の方がコントロールされていないかの確認が必要でしょう。

外部の現象を条件にすればするほど、苦しくなってくるのが人間のメカニズムです。

常に「どっちでもいい」くらいの感覚で生きれば苦しさなどありません。

そんなことを2500年くらい前、元放蕩王子のセンチメンタルな青年は思ったわけです。

世間ではブッダなどと呼ばれている、なかなかしぶいセイントお兄さんです。

どっちでもいい

「どっちでもいい」という視点だけになると、
強いて言うならバニラが食いたいが、チョコでもいい、なんなら別にいらない。

という状態になります。

何かを選ぶ意志だけはあります。でもそこに執着はありません。

だから人に与えたりもできます。

執着がないから苦しさもない。

でも好きなものははっきりとしてきます。
でも、なくてもいいのです。


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