真理とは何か?

神がまさしく真理でないとしたら、そしてまさしくこのことが証明されたとしたら、どうだろう?神が人間の虚栄心であり、権力欲であり、短気であり、恐怖であり、喜びと驚きの妄想であるとしたら、どうだろう? 曙光 93 後半

「真理とは何か?」

といきなり胡散臭いカルトのようなタイトルですが、特別企画なので仕方ありません。

カルトもよく真理という言葉を使いますが、「教祖に財産をお布施しないと地獄に落ちる」等々、それは真理ではありません。

しかしながら、そんな変な宗教や宗教まがいの自己啓発セミナーなどにハマってしまう人たちがいます。

しかもハマってしまった人は、そんなまがい物の「真理」を本気で正しいと思っています。

ではどうしてそんな変なまがい物の真理を本当の真理だと思ってしまうのでしょうか。

ということで、真理だと思ってしまう「真理と心理」についてでも書いていきます。

大前提として「真理」

まず大前提として真理とは何かということをを少しだけ書いておきます。

それは誰にでも再現可能であり、今すぐに確認できるものであり、誰かの主義や考え方で変更できないようなものです。

といっても、少し哲学的に、形而上学的には考える必要があります。

例えば、目の前に本があったとして、それは「本がある」という実在とかそういうことではなくて、「目の前に本があると感じている」くらいが真理です。

目で見ようが手で触ろうが、それは感覚としての情報であり、仮に「そこにある」という情報が別の方法で送られてきた場合でもあると思ってしまうということは、本そのものの実在は確実とは言えないという感じになるからです。

では、本は無いのでしょうか?

でも本が無いのならば、「本がある」ということを思いもしないはずです。

で、例えば300ページの本だったとして、中のページを一枚破ってページ数としては表裏が欠けた分、298ページになったとしても、破る前と同じように「本がある」というような感じで捉えるはずです。

ということは「本がある」という場合の本とは何でしょうか?

何をもって本だとしているのでしょうか?

何をもってして「本」かすら定義できない、でも何もなければ本があるということを自分が思うこともない、という感じです。

ということで、それが有と無を抽象化した空という概念です。

意味がわかりにくいかもしれないので、イメージだけお伝えすると、例えば「0」に限りなく近い正の数字を思い浮かべてください。

そうなると、「0.0000000000000000…1」という感じになります。

で、それはイメージの中ではそうした数字というものを想起することができます。

しかし、実際に紙にプリントアウトして示せと言われても、小数点が無限に続くのでできません。

そしてそれは、自分の主義がどうあれ、変えることはできません。

その上で、誰にでも再現可能な対象だと思っておいてください。

目を開ければ何かは見えます。でもそれは「見えているということ」であって、その「見えているものが実在している」のとは少し違いますよ、という感じです。

真理なんてそんな感じですよ、という感じで掴んでおいていただければと思います。

まがい物を本物だと思ってしまう真理と心理

さて、そうした中で、何故か「教祖にお布施をしないと、地獄に落ちる」というようなこと真理とする、胡散臭いカルト宗教などがあったとして、普通に考えてみれば、そんな理論は「小学生がふざけた程度のネタ」でしかないようなものです。

しかしながら、それを「真理」だとして、真に受ける人がいます。

ということで、どうしてそんなものを真理だと思って本当だと思ってしまうのかという理屈としての真理と、そういう人たちの心理について書いていきます。

カルトにハマった人を言語としての理屈で脱洗脳しようと思っても、それはほとんど不可能です。

なぜなら、理論的な理屈でハマっているからではないからです。

以下からは、なるべくわかりやすいように、意味を厳密にせずに少し平易な言葉で書いていきます。

体の記憶

キーポイントは、体の記憶です。

記憶という言葉を聞いて、おそらくほとんどの人はストーリーとしての記憶、電話番号などデータとしての記憶のことだけに着目すると思いますが、そのストーリーや「言葉」には、同時に体がどう感じたかの累積記憶がくっついていると考えてください。

言語としての情報は、誰かから得たような情報しか自分の中にありません。

しかし、全くオリジナルの記憶というものがあります。

それは自分が何かの体験したときの体の記憶です。

で、その体の記憶と、目の前の現象のパターンやそれぞれ特定の「言葉」がリンクしています。

例えばある女性をベースとして考えてみましょう。人生の中で「自分をやさしく包み込んでくれた人」の共通項が、「薄毛の人」だとします。

そうなると、薄毛の人について「かっこ悪い」ということをどこまで周りが説こうが、その人の意識の奥底には響きません。

しかし少しは意識が同調によって伝わります。

言語情報としてもそうした意見のようなものは一応出来上がります。

ということで結果として、本気で好きになる人は「薄毛の人」であるにもかかわらず、そうした好みについては特に周りに言わず、表面上は自分も「薄毛の人は嫌だ」と言っておきながら結局薄毛の人を選ぶということになります。

そして、友人たちが「薄毛なんてありえない」と言っていた場面にできた感覚と統合されて、「外に出る時は帽子か何かをかぶって欲しい」などと言いつつ、二人きりのときには全く気にしていないという感じで過ごすことになります。

また、それとは逆に自分が恐怖を覚えた体験の共通項が「ぱっちり二重の人」だったとしましょう。

ぱっちり二重の人に襲われそうになったり、理不尽なことをされたり、という感じです。

自分が恐怖を覚えた瞬間、自分の目には「ぱっちり二重の目」が見えていた、ということです。

すると、例えばお見合いなどで、データ上つまり表面的な情報では非常に優れつつ、世間で良しとされるような「ぱっちり二重」の人が目の前に現れたとしても、「何となく嫌」という感じで良い話にならなかったりします。

もちろん、その相手の意識の状態などによって、記憶が書き換わることもあります。しかし、かなりのマイナススタートになってしまうという感じです。

そしてこうした体の感覚とのつながりのパターンが五感と意識でたくさん出来上がっています。

パブロフの犬

ということで、言霊なんて言われるようなものは、その言葉と体の感覚がセットになっているから効くと思っておいてください。

餌をあげる時に鐘の音を鳴らして訓練すれば、鐘の音を聞くだけで唾液が出るというような、パブロフの犬と同じです。

で、これは、行動の記憶というよりも、その音の直後に腹が満たされて体が気持ちよくなった、という体感の記憶と音が結びついていると考えておきましょう。

鐘の音を聞けば、「少し後」に体が気持ちよくなるという感覚の記憶です。

面白いのが、鐘が鳴った瞬間に実際に餌を食べているのではないということです。

一方、このパブロフの犬は、例外が繰り返し行われると、その関連付けが弱まっていきます。

それは当然ですよね。

鐘の音を聞いても餌が出てこないということが続けば、リンクは解けていくわけです。

でも、それが不規則になれば、どうなるでしょうか?

鐘の音を聞いて、場合によっては餌が出る、場合によってはエサは出てこない、と。

そうなると、少しストレスを感じながらも「期待」は膨らみ、餌が出た瞬間の快感は強まります。

ということで、これがギャンブル狂いの心理であり、いかに言語的説得が有効的ではないかということの構造です。

ポイントは「体」としての「気持ちよさの記憶」です。

そしてカルトにおいては、脱会させないために、「恐怖」を関連付けます。

例えば心が荒んでいた人がいたとして、まあその人にも一応気にかけてくれる友人がいたとします。

で、カルトは「心が荒んできた時に付き合っていたのは誰か?」ということを想起させます。

で、その友人と関わり合っているかぎり心は荒むということを関連付けます。その際には、何かしら嫌だった記憶の情動記憶を利用するでしょう。

すると、その人はカルト脱会のきっかけともなりうる友人を「悪魔」だと思うようになります。

友人と接触してその顔を見ると「嫌な体の感覚」が蘇るように関連付けを行われるからです。

無意識に出来上がったパターン

そういうわけで、誰しもに無意識に出来上がったパターンというものがあります。

カルトの例は極端ですが、知らず知らずのうちに「実験台となったパブロフの犬」のように、無意識にパターンが刷り込まれているということは否めません。

それを脱するということは、無意識に飛び込むということです。

しかし無意識というものは意識していない対象のことを指します。

ということで、意識上で無意識に働きかけるということは、普通はできません。

だから、意識の上で「自分はこうしたい」と思っていてもできないのです。

意識の上で理解していることと無意識の関数

自分の思考、意識の上で理解していることでも、うまくできない場合がよくあると思います。

人前でスピーチをする時に「あがらないように」と思っていても、無意識の中に「人がたくさんいる場面で話をする」という条件に対して、体の記憶として「以前は、こうした場面で体が嫌な感覚を感じたから、この場面は回避しなさい」というパターンがアウトプットされるという感じです。

インプットは「人がたくさんいる場面で話をする」というもの、それを頭のなかに入れて演算した結果、「危険であるため回避せよ」というものが体の反応としてアウトプットされるのです。

アイツこと自我の基本は生存本能として「安心安全」を最優先にするということです。

「この条件が揃ったということは、あの危険が起こりそうだ」と言う感じで、以前に同じような場面で恐い思いをした「恐いという体の感覚」を呼び起こさせて、その場面を回避することを命令するのです。

それを「大丈夫だ」と意識で押さえ込もうとしても、感情や感覚の世界に思考を持ち込んでいるようなもので、いくら説得されても嫌いな人を心の底から感情的に好きにはなれないのと同じようにコントロールはできません。

でもそれは、そういう「関数」のようなものが無意識にあるからです。

ということは「関数」を変更してしまえば、同じような反応をすることが無くなっていきます。

少なくとも反応は薄れていきます。

本当はそれを見切ってしまい、一気に錯覚を解くのが良いですが、少しハードルが高いかもしれません。

不足感や願望は「過去からの因果」という思い込み」で少しだけそのオチを書いていますが、徐々に解除していくのも面白いと思っていただき、「あの癖が少しでもましになるならそれでいいよ」という感じで、気楽に実践しやすいものについてお伝えしましょう。

そういうわけで、記憶による「関数」対して働きかける方法をご紹介していきます。

記憶と体の感覚の関数を変更する

まず、記憶と体の感覚がセットになっているということを大前提として覚えておいてください。

「あ!このパターンは!」という感じで、ある条件が目の前に起こると、勝手に「危険だから回避せよ」とか、「これは気持ちよくなるぞ」とか、そういう感じで無意識で反応してしまうことについてのアプローチです。

「メガネを掛けているやつにばかり嫌味を言われたので、メガネを掛けているやつを見ると腹が立つ」という感じのことを思っていたとしましょう。

普通は言語上、論理上で、「そんなの関係ないよ」と周りは説得しますが、ここで取り扱うのはそうしたものではなくて、その「メガネの人を見たときに起こる体の反応」に関して、記憶の方の臨場感を弱めるという感じです。

そうした出来事の源流っぽいものを思い出してみたり、実際に強烈な体験があるのならば、それを思い出してみましょう。

ということでわかりやすく、学校や会社で「いじめ」にあって、学校や会社のことを思い出しただけで、体が緊張し、その場所に行きたくないと思っているということを仮定してみましょう。

この時、いじめた方が悪いといったような論理上の「自分の正当性の主張」や「解釈変更」なんて要らないですよ。

何だかワクワクしてきましたか?

ということで進めていきます。わかりやすく学校でいじめられたということにしましょう。

今、いじめが原因で、学校に関することを見聞きしただけで、それどころか学校自体を思い出しただけで、体が緊張する、というパターンができている、という感じでスタートします。

現実とイメージの臨場感

まず、頭は実際にこの体で体験したことと、イメージの中で体験したこととの区別がつきません。

そこで「イメージ=視覚情報」のことだと思っている人が多いようですが、この場合のイメージとは五感のすべてだと思っていただければと思います。

そして、阿羅漢でもない限り、今現実で起こっていることと、意識の中の働きとがそれぞれ「臨場感のレベル」によって比率が変わりながらミックスされて心がその状態を感じているという感じで思っておきましょう。

嫌な記憶を思い出したら、記憶の中の五感のイメージを感じます。実際に汗をかいたり、焦ったり、という感じです。

でも今現に起こっているわけではありませんので、今現実に起こっていることももちろん感じます。部屋が寒かったら、「寒い」ということは思いますし、カップヌードルを食べているのであればその味や匂いも感じています。

で、ポイントは臨場感です。

現実と記憶がミックスされているのですが、意識の向き方次第で感情を含めた体感の比率が変わります。

現実に集中している時は記憶があまり介入しないということで、暇を過ごすよりも軽作業をしているときのほうが緊張具合があまりないのです。

という長い前置きになりましたが、いよいよこのセクションの本題である、記憶と体の感覚の関数を変更するということの具体的な方法に移ります。

記憶の臨場感を弱める

すごく簡単な理屈ですが、現実と記憶がミックスされていて、現実のほうが臨場感が高ければ、嫌な感情のレベルも下がり、体の反応も薄れます。

ということで一般的には「記憶を消そう」としますが、消そうと思ってもなかなか消せないので困っているはずです。

そういうわけで、記憶を消すのではなく、その記憶の臨場感を弱めて、記憶とセットになっていた「体の感覚」を今感じにくくすればいいのです。

現状、「学校の門を見る」→「学校でいじめられたことを思い出す」→「いじめられた瞬間に感じた嫌な感情や体の感覚を思い出す」→「感情を含めた体感と今この場で感じていることとのミックス状態を心が受け取る」という感じです。

そこで、「いじめられた瞬間」の記憶を消すのではなく、いじめられた瞬間に感じた「体感」を今あまり感じないようにする、というアプローチです。

それは非常に簡単で、臨場感を弱めればいいのです。

具体的方法

その具体的方法は次のとおりです。

まず、いじめられた瞬間の「絵」をできるだけ思い出してください。おそらくその絵は「カラー」であり、その時は自分が主体となり、当事者として相手の顔や現場の風景などを見ているはずです。

おそらくこの時イヤな感情を感じると思いますが、その感覚を大切にしてください。

そして次に、当事者ではなく第三者の傍観者として、自分と相手とを客観的に見ている「絵」に変更してください。

その客観視した「絵」が出来上がったら、1、2秒の一瞬の間にその絵を「モノクロ」にして、「ピント」をぼやけさせて、左下などにスーッと「縮小」してください。可能であれば縮小の際に自分より遠くに動かしているようなイメージを加えてもいいでしょう。

最初は、一瞬ではできないかもしれません。

それが一度でできるのか、何度か繰り返し訓練してからできるのかはわかりませんが、ひとまず一瞬のうちにそのイメージ変更を行ってみましょう。

その効果が一度目に生じるのか、数回目に生じるのかはわかりませんが、どんどんその体験の記憶の臨場感が弱まっていきます。

そのうち、モノクロのぼやけた記憶しか思い出せなくなるでしょう。

その頃には反応は大幅に薄れているはずです。

他にも方法はたくさんありますが、一例をご紹介しました。

道徳や倫理を用いた制裁的解決をするよりも簡単です。

夫婦喧嘩の後の険悪な関係にも使えますよ

逆に嬉しかったこと、楽しかったことは、当事者目線でカラーの絵を大きくしてより鮮明にして、その時に感じた体の感覚をより強くしていけばさらによくなります。

夫婦喧嘩をしてしまったということなら、喧嘩をしているシーンに関しては、モノクロにして臨場感を弱め、ラブラブだったときの思い出の臨場感を高めれば良いのです。

それでそれを懐かしんで終わりにするのではなく、目の前の現状がどうあろうと、相手がどういう態度を取っていようと、ラブラブだったときの体の記憶を利用して、心地よい体感を維持してみてください。

おそらく予想していなかったような、より良い展開が待っているはずです。

理屈をこねたり、力をもって相手をコントロールしようとするよりも、己の心を静め、一つとなり、相手を導くという合気道のような結末が待っているでしょう。

真理とは何か? 曙光 93


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