生贄の道徳

諸君は感激して献身し、自分を犠牲にすることによって、神であれ、人間であれ、自分を捧げている力強いものと今や一体であるというあの考えの陶酔を享受する 曙光 215 一部抜粋

世間の宗教のみならず、国家であれ大企業であれ、大企業ではないものの老舗であったり、有名なブランド力のある企業などに勤めると、意識しないままにこういった陶酔に酔うことがあるでしょう。「自分を捧げている力強いものと今や一体である」という陶酔です。

主義や組織との同化による陶酔とでも表現するべきか、宗教への狂信というものだけでなく、組織としての国家への陶酔、愛社精神と呼ばれるような陶酔の形があったりもします。

愛社精神

ある自動車メーカーは、そのメーカーの車でその企業に訪問しないと、駐車場がガラ空きであっても、入り口からかなり遠いところに駐めるように警備員に誘導されるようです。

それは一種の狂気であり、社会が生んだ「合理性と逆行する働き」です。そういうことをすれば、心持ちが伝わり、愛社精神を示すことができる、というのは社会的目線での歪みであり、ただの「合理性」から見れば、極めて狂気であり、動物がその様子を観察した場合は、首を傾げるでしょう。

そうして愛社精神いっぱいになると、その企業の持つ力強さと一体になったような気分になるのでしょう。しかし、そういう精神を持たないとクビにされるような企業の世話にならないと「生きていけない」と恐怖していることを先に嘆くべきです。

美化された奴隷の道徳

こうした「愛社精神」や「模範すべき信仰」などという美化された奴隷の道徳が、次の奴隷を生み、狂気を存続させていきます。

何もわからない若者が一人でこの企業に入った場合なら、周りに影響されて、そのうち同化していきます。同化していかねば生きていけない、これはもはや諦めであり、道徳的でありながら道徳的ではありません

「頑張ったのに」という抵抗感

この時の諦めは、「頑張ったのにもったいない」というものです。あれほど勉強し、受験し、就職活動を頑張ったのに、すぐに辞めてはもったいない、という気持ちです。また、それにかかる周りの援助や、「祝いの言葉や品」がそれを加速させます。

そんなことは気にせずに、辞めましょう。

相談すると何も内情を知らないのに、表面上のデータだけ知っている人たちが止めてきますから、そんな時は辞めてから事後報告です。周りは騒ぐだけ騒いでも結局何もできません。

大企業にいる人はみんなサラリーマンです。そこでしかできない仕事もありますから、それがしたければそこにいてもいいですが、そんな大企業もはじめは起業家が作ったものです。学校の延長ではありません。何か「ハコ」が最初からあったわけではありません。

社会などそのようなものですから、ベースは個々人です。本来は個々人で衣食住を自力で賄うのが基本で、それを効率化したものが会社ですから、社会は各々が得意分野で効率のよい生産を行って、それを交換していることで成り立っています。その原則を忘れてはいけません。

金融マジックと身体・楽しみの限界

さらに効率を考えた結果、金融マジックというものが生み出されました。それはそれで構いませんが、そちらはあくまでオマケです。オマケが主軸になっているのは、効率性を考えればそれを止めることはできません。

しかしながら、社会はそれを主軸にしていても、それが全てだと思うのは錯覚です。なぜならば、大金をはたいても、得られる認識の間口は五感くらいしかありません。10倍払っても10倍心地良いわけではありません。身体の限界と楽しみの限界

1.2倍位にはなるかもしれませんが、その快感は一瞬で消えます。もう記憶でしかありません。一方、恐怖心が解消されるように思いますが、一部の恐怖心は、「預金残高」というもので一時的に奥底へ沈みます。しかし無くなるわけではありません。

人から羨ましがられても

自慢のようなことをして、人から羨ましがられても、「羨ましがられている」という意識が自作自演で起こっているだけですから、自分で掘った穴を埋めたり、自分で作った山をまた平に戻しているようなことです。

羨ましがられたいと欲し、「多分あの人は私を見て羨ましがっているだろう」という外部現象からの意識の判断で、アイツの内で勝手に騒いで勝手に安心しているようなことです。

ただ、それくらいのものなのだから、あれこれ考えて行動して結果が生じても、「それ以上でも以下でもない、ただそれくらいのものなのだ」と、「アイツ」による主従関係の乗っ取りだけは避けねばなりません。

生贄の道徳 曙光 215

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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