状況によって変わる意識の身勝手さ

状況によって変わる意識の身勝手さについてでも書いていこうと思います。

意識の中に信念や考え方の傾向を持ってはいますが、そうした意識の向き方やモノの見方、いざというときの考え方や環境への対応というものは状況によって変わっていきます。

そう言えば先日、ナニワ金融道、新・ナニワ金融道、新・ナニワ金融道Rと、ナニワ金融道シリーズを読破しました。

お金を借りに来る人については、お金を貸す人借りる人で、ある程度触れていますが、ナニワ金融道を読むと改めて状況によって変わる意識の身勝手さについてヒシヒシと実感したりします。

前回の「自由意志と洗脳」で少し触れていますが、普通に過ごしている人は、普通に周りの状況に反応しているにしかすぎません。自由意志で行動を選択しているかのように見えて単に状況に反応しているだけだったりします。

そして能動的に動いているような人でも、無意識の奥底からの衝動に反応しているにすぎないのです。そして、その衝動からの動機の方向づけは自分のオリジナルではないため、トータルで俯瞰して考えると、自由意志で行動しているかのように見える能動的な人も、所詮状況への反応、外界への反応をしているにしかすぎません。衝動は本能的欲求から自動発生し、その欲求が何かの動機になるときにもその変換のされ方自体は、自分以外の情報の収束によって方向付けられてるという感じです。

人の特徴として、様々な環境に適応することができるという点があります。両親が黒人であっても、京都に生まれ育てば京都弁を話せるようになるのが良い例です。

そのような感じで、適応したがゆえに出来上がったパターンを保持しており、外界の状況に対してそのパターンの上で反応しているにすぎないというのが普通です。

で、人の意識や信念など、結局のところ状況が変わればすぐに変化してしまいます。

状況が変われば信念も変わる

すごくいい人であっても窮地に立てばどのような行動に出るかはわかりません。

ある信念を持ちながらも、その信念は周りの状況が一変すると同時に一変してしまうこともありますし、徐々に変化する形で変わっていく場合もあります。

そのような感じで、人を騙すことなどできそうにもない人でも、ブラック営業職に就き、じわじわ時間をかけて罵声とともに導かれていけば、あっさり人を騙すような人になることもあります。

良心よりも「上司の罵声を回避したい」ということや、自尊心を傷つけたくないということを優先しだすこともあるのです。

そのような形で、以前に会った時はすごくいい人で、すごくいいことを言っていたとしても、次に会うときにはわかりません。状況が変わっていれば、意識は身勝手に変わっていきますし、どのように状況が変わっているかは、次に実際に会うまでは不可知な領域だからです。

すごくいい人で、その当時、すごくいいことを言っていたときの気持ちは本物かもしれません。

しかし状況が変われば、そのような特性は変わってしまっていることもあります。

状況が変われば信念も変わるのだから、逆に考えれば、人は良い方に変わっていけるということになります。

だから、それを憂うことはありません。

疑うのに抵抗があるなら「本質を見る」というふうに考える

世の中では、「何事も疑ってかかれ」と言われることがあります。

確かに疑ってかかるということは、騙されないためにも必要な見方ですし、そうした思考をすることで、全体を包括して捉える能力も付きます。

しかし、相手を露骨に疑うということは、心理的にも抵抗がありますし、相手も相手で「疑われている」と感じれば、対面したこちらのことを嫌いになっていく可能性だってあります。

そういうわけで、「疑う」ということに抵抗があるのなら、「本質を見る」という感じで考えてみてはどうでしょうか?

身勝手な意識

さて、ここでイメージの世界に入りましょう。

すごく鬱状態の人がいたとして、仮に遠縁の親戚の遺産が1億円入ってくるというニュースがやってきたとき、その人の振る舞いはどうなるでしょうか?

実際に1億円が手元に来たわけではないのに、おそらく意識の状態が変わるはずです。

逆に現役で充実した生活を送っている人が、急に1億円の借金があることになって、さらに勤め先が倒産するというニュースが入ってきたときはどうでしょうか?

おそらく一気に意識は変化するでしょう。

それくらいに意識は身勝手なのです。

では、僕はどうかというと、その両方のケースで心理状況は特に変化がないと思います。

実際に1億円がやってきたり、それが借金としてやってきた場合、関係者とやり取りなどをしなくてはならない部分はあると思いますが、心理状況に特に変化は起こりません。

いわゆる平常心というやつです。

外界に反応しない、という感じです。

周りの状況によって意識が変わってしまうということは、周りの状況に依存しているということです。外界に依存しているからこそ外界に振り回され、身勝手に意識が変化していってしまうのです。

対象も対象の状態も選択できるなら

ところで、もし、対象も対象の状態も選択できるなら、どんな感じの生活が待っているでしょうか?

人のストレスなど、大半が対人関係です。

で、それはそうだとして、付き合う相手を自由に選ぶことができて、さらに付き合う相手の状態も自由に操作できるとしたら、人生はどんな感じになるでしょうか?

と、ここで、話が若干ナニワ金融道に戻りますが、ナニワ金融道の世界では、お金を貸す、貸さないは金融屋の方に選択権があります。もちろん最初の客の呼び込みという時点では、いろいろと行動が必要になるかもしれませんが、実際の融資の局面では帝国金融(ナニワ金融道主人公灰原の勤める金融会社)の方にパワーバランスが傾いています。

読んだことのない方にはイメージが湧かないかもしれませんが、融資の局面だけでなく、さらに取り立てに関しても、帝国金融の金畑社長や主人公灰原などの思惑で、債務者の行動がかなり操られています。

外界に反応して生きるということは、その債務者(お金の借り入れをする人)と同じような生き方になってしまうということになります。

という僕も、十代の頃は、ミナミの帝王やナニワ金融道を読むたびに、どちらかというと債務者側(お金を借りる側)のマインドに引っ張られ、社会自体が恐いものであるような気持ちになったりしましたが、今読んでみると、債権者側のマインドしか感じません。まあそれだけ成長したということでしょう。

漫画の世界では金融をテーマに対象の選択と、対象の状況の選択が行われていますが、外界に反応せずに、外界を反応させることができるようになると、日常生活に憂いがなくなってきます。

意識は状況によってコロコロ変わってしまいます。

しかし、その状況を含めた情報空間をプロデュースしてしまうことができたなら、社会で生きる上でも無敵になっていきます。

相手は状況によってコロコロ変わる意識を持っている、と。

でも自分は状況によって意識がコロコロ変化せずに、状況すらも作っていけるとすれば、自分の一人勝ちになります。

「状況?何が状況だ。状況など私が作るのだ」といったのはナポレオンですが、状況によって変わる意識の身勝手さを裏返し、状況すらも自分で変えてしまえばいいのです。

反応の対象

見ることを意図してから絵を描く


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