犠牲の価値

国家と君主から個人を犠牲にする権利(司法や従軍などの場合のように)を剥奪すればするだけ、一層自己犠牲の価値が高まるだろう。 曙光 374

まあこれはパラドクスのようなもので、自由を欲しながら、自由にストレスを感じるということがよくあるという感じでしょう。

忙しいと休暇が欲しくなるというのが普通だと思いますが、お金が無限にあったとしても、永久に休暇ばかりだと気が狂れてしまうという感じに近いです。

自己犠牲の価値という表現は面白いですが、人から命令されることや責任感や義務感を感じて生きている人たちは、自由が与えられる事自体にストレスを感じるというパラドクスがあります。

自由になりたいと思いながらどこか奴隷気質で、どこか「世話をされたい」をいうフシを持っています。

奴隷気質

実は世の中の大半の人、とりわけ勤め人の方々は奴隷気質を持っています。

仕事であっても、「何かを創造しなさい」と言われるよりも、決まりきった仕事を淡々とこなすほうがストレスが少ないからです。

物事を考えたり意志を決定したりすることよりも、何かに従っていた方が楽であり、少しの違和感は感じながらも何も考えずに過ごしていた方が楽だというような感じです。

それに慣れている人、つまり奴隷気質を持った人は、人に従うことのストレスを解釈変更し自己犠牲が美徳であるかのような「自己犠牲の価値」を見出したりしてしまいます。

それが企業の奴隷であれ、家族の奴隷であれ、何かしら奴隷にはなりたくないと言っておきながら、生活を見渡してみるとかなり他人の柵に振り回されているというのが本当のところでしょう。

他人の柵に振り回されるのは嫌だが全て自分の責任で行うことも嫌

といってもそれはそれで嫌になってくるので「海外旅行」などに行こうということがよく繰り広げられています。我慢した分、何かで埋め合わせをしようというような試みです。

ただそれでも他人の柵に振り回されるのは嫌でありながら、全て自分の責任で行うことも嫌だという気持ちを持っています。そして逐一自分で決めていくということや、何かを生み出さねばならないということに強烈なストレスを感じるようになっているという感じです。

そういうわけなので、生かさず殺さずの状況を受け入れ、多少のストレス発散的なことで耐え忍ぶという生き方になっています。

勤め人と起業家の比率

それで思い出しましたが、よく起業家の人とかが、勤め人の人などに対して「起業した方がいい」みたいなことを言いますが、大半の人はそれを理解することができません。

もちろん理屈は理解できるのですが、実行する人はあまりにも少ないという感じになっています。

それが実際の経済社会の中での、勤め人と起業家の比率です。

といっても、配偶者の稼ぎありきの「女性起業家」みたいなのは論外ですから、対象外としてください(もちろんそうした依存体質がない人は対象です)。

「起業した方がいい。なんで理解できないのだろう」みたいなことを言う人もいますが、理解できない人たちの思考をその人が理解できないだけです。

「世話をされたい」という気質

大半の勤め人の人は「世話をしたい」のではなく、「世話をされたい」という気質を持っています。

「いじめられたい」

とすら思っている人も多いくらいですから、そんな簡単に頭でだけ伝えられるものではありません。それが抑圧されると概ね被虐欲求を抱えるだけになったりしてしまいます(被虐と解放)。

だからこそブラック企業なんかも生き残っているのでしょう。

言われたことしかできないという場合は、言われたことを淡々とこなす才能があります。

逆に言われたことを「いやーそれ効率悪いよ」とか「なんか変だなぁ」と言った感じで、やりたくないと思う人はそうした才能がありません。そうした人は起業の方が向いているでしょう。

犠牲の価値 曙光 374


奴隷気質や自己犠牲は美徳でもなければ称賛されることでも何でもありません。また他人からの圧力によってもたらされたような「責任感」というようなものに翻弄されたりする必要もありません。

自己犠牲の根底にあるものとして、承認欲求や低い自己評価・自尊心への補償という感じで説明されることがありますが、そうしたものへの個別的対処、具体的行動などによる解決は遠回りなのでやめておきましょう。

自己犠牲の精神からの脱却

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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