演劇はその時をもつ

ある民族の想像力が衰えると、その伝説が舞台で上演されるという傾向が生じる。今や民族は想像力の粗雑な補充品を我慢するのである。 曙光 265 前半

昔の曲のカバー曲などを聴くと時に寒気がすることがあります。

オリジナルと同等以上の味があるのならばいいのですが、「なか卯」などで流れるようなカバー集のような曲は寒気がしました。その理由がよくわからなかったのですが、最近ではよくわかるようになりました。

それは、オリジナル楽曲を音符に変換して、音符をなぞっていることにあります。それは初音ミクだけで十分です。

せっかく楽譜に表れない要素が味としてあるのに、それを全部消してしまっている感じで無機質に聞こえることが寒さの原因でした。歌唱力の問題ではありません。

要約すると本質が消えてしまう

同様に、ヴィジュアル化してはいけない作品というものがあります。ドグラ・マグラなどはその最たる例でしょう。あれは小説しか完全には描写できません。脚本化などできない作品です。

想像の中の世界観が、ヴィジュアルによって固定化されてしまいます。抽象的な情報を具体化しすぎてはいけないのです。

世の中には、文章を映像化しても特に害のない作品もあれば、「それをやっちゃあお終いよ」というような作品もあります。

新約聖書の中身を映画化したようなものもありますが、そんなことはしないほうがいいでしょう。

結末に多種多様な解釈を潜り込ませることのできるものを、ある種の誘導によって一つの解釈に持って行こうとするようなものもお粗末です。

可能性が統合された抽象性に味がある

可能性が統合された抽象的なところに味があるのに、それを具体化してしまっては元も子もありません。

どんなストーリでも仔細に分解していけば、必ずその構成が見えてきます。しかし、その構成をなぞればいいというものではありません。

アクションをメインにしているようなものであれば、数行でそのストーリーの要約を書けてしまいます。その要約からの可逆もおそらく容易にできるでしょう。

しかし、要約してしまっては本質が消えてしまうようなもの、要約文にたくさんの注釈が必要な作品というものがあります。

それは極限まで不可逆性を持っています(できないことはありません)。圧縮と解凍を繰り返しても、中身が壊れないのかどうか、というところが簡単な尺度になるでしょう。

多義性や曖昧さを嫌う無機質さ

演劇はその時をもつ 曙光 265

一度でいいから演劇でブラボーと叫んでみたい

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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