淋しくならない努力 改

耐えることが修行かのように考えられていますが、それもきっかけ作りにしかすぎず、苦しんでいたのでは全くトンチンカンだということはあまり語られないような気がします。

「山にこもる」

というようなことがたまに言われたりしますが、これも変な話です。

山にこもれば、遊びもない、人とも接することができない、いわゆる俗世間的な誘惑がないというような面もありますが、これは補助輪を付けて自転車の練習をしているようなもので、本質的なものではないような気がします。

山にこもらないといけないのは、二流三流ではないでしょうか。

気分転換に山にこもらなければならない場合は、まだまだ「アイツ」の範囲にいます。

山にこもる行者を見かけたときは、

「そんなことしてないで畑でも耕すか、コンビニでレジ打ちをしておきなさい」

と言えるくらいになれば面白く過ごせるのではないでしょうか。

淋しいという気持ち

今ではすっかりなくなりました。

皆が皆、淋しい気持ちは持っている、どこかに不安を持っている、というのは嘘です。

「誰でもみんな淋しい、不安、自分も不安、それで当然」、ということで不安を紛らわせようとするのは「アイツ」の戦略に過ぎません。

それが人間味、ということで美化しようとする働きまであります。

確かにそういった「演出」によって経験を盛り上げる、という要素はありますが、それをダシにそこにつけこむ人もいれば、「アイツ」だって利用してきます。

「ほら、淋しいという感情があってこそ、生きてる実感がするだろう?」

そういう囁きをしてくるでしょう。

また、淋しさが前提なら、それに対する解決策もいろどりみどり、たくさん量産できます。

雑誌のネタにもできます。

占い師や宗教団体は需要を得ることができます。

夜の街は賑わいます。

いわゆるヒモ生活だって成り立ってしまいます。

「あるんだから、あるだろう」

そういうものの成り立ちを根拠に、淋しさというものは当然なんだ、ということを「アイツ」も世間も主張してきます。

しかし、そもそもそんなものはありません。

テレビ画面や映画のスクリーン、または夢の中で見たようなことを、現実だと錯覚しているのと同じことです。

私という主人公が勝手にそんなことを感じているのだ、と、他人事のように捉えてみましょう。

そして、「自分の経験の中に、そういう感情はいらない」と、きっぱり選択しきってみましょう。

自動発生に対するアプローチ

繰り返し繰り返し、すべてフルオートマということを書いています。

ですので放っておいてもいいのですが、「自動発生」にはいくつかの解釈というかアプローチが考えられてしまいますので、おおざっぱに少し触れてみましょう。あまり、どれが正しい、正しくない、ということは避けておこうと思います。本来的には論理的な証明というものはあまり必要ありません。

予定説

全ての現象は、遺伝子レベル、その時代の社会の構成状態、出会う人、得る情報、そこからとる行動、などが自発的に生み出したものではなく、すべて外部からの情報や物理的条件によって決定されているので、因果律の原因はすべて自分では決定しておらず、また、法則によって結果は自動に発生するため、個人の経験はすべて受動的に五感と思考・感情によって体験しているに過ぎません。

ある選択肢が、目の前に提示された時(これも外部からの自動発生)に、選択し決定する内容も、それまでの経験からの演算による結果にしか過ぎません。

つまり、そこに自由意志は存在しないという立場になります。

思考や感情はコントロールできない

思考や感情は、ひとりでに発生するので、自分では変えることができない。

全ては定められていて、自由意志は存在しないので、自分が体感している感情からは逃れることができない。

という前提があった場合、もともとの感情自体が、五感や思考による産物であるならば、元の思考の素材に改良を加えてみるという考え方ができます。

しかし、思考方法に新しい素材が入らないと、変わらない可能性はあります。ただ、思考は表面的な意識だけで動いている場合もありますが、気を緩めると、とんでもない解決策が浮かんでくることもあります。

新しい何かが入ってしまえば変わる可能性は高いです。

一方で、新しい考え方を入れずに、今ある思考パターンを無くしていくという方法もあります。

加えることもできますが、減らしていくこともできます。

今まであったなにかの考えをなくしていくというより解釈が変わっていくという方が正確かもしれません。

もし、ここで新しい考えが入ったり、なくなっていけば、当然に、結果である感情も変わっていきます。

ということはコントロールできるということになります。

ただ、その情報を得ようとする思考がまず働かないと、変わらないかもしれません。

そして、コントロールは自発的にしているのではなく、「コントロールしてみよう」という考えが入ったからです。それは自分の中で、情報が組み合わさって発生したものかもしれませんが、自分単体で生み出したものではありません。

ということは、コントロールさせられている、という表現のほうが近いのでしょうか。

ということは、「自分でコントロール」は、できない、できていないことになります。

ただ、コントロール自体は実現しています。

さあ、論理の迷路に入ってきました。

しかし、本来的には、こんなコントロールすら必要ありません。

ただただ、「アイツ」とのダンスを楽しんでみました。

理論ではなく、実質的な結果にこそ、喜びがあるのは言うまでもありません。

過去記事⇒淋しくならない努力

Category:さよなら私 / 自分なくし

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