消えた懐疑

古代人は― われわれと違って― 来るものに関してというよりもむしろ、現にあるものに関してはるかに懐疑的であった。 曙光 155 後半抜粋

「過去にとらわれずに」に続く言葉は「未来型思考でいこう」という場合が多いでしょう。またもや二元論化です。「ゆく年くる年」と聞いても、「え、今は?」とはならないでしょう。

現にあるものに懐疑的ということは、「?」の対象が未来ではなく今この場のあれこれに関して疑問を抱いていたということです。未来は未来で今起こっている妄想ですから、それに懐疑的になっても、元が空振りで、元が妄想ですから、そこから導き出したものは、やはり妄想です。

最近でこそ、たまに「今を生きよう」というような、半分宗教家の書いた記事のリンクシェアを見かけますが、彼らの言う今は、「今日」とか、「今している行動」くらいのものです。

過去や未来への想像で悶々とするよりはだいぶマシですが、パチンコ屋にいて、一生懸命パチンコをしていても仕方ありません。確かに昨日明日に思いを寄せるよりは集中力が上がるかもしれません。では、その集中力をもって、動作の一つ一つに意識を集中させていきましょう。そして完璧に今現在をとらえた時に、ある体感が待っています。その体感からさらに現象を観察していけばもっとすごい体感が待っています。

就活セミナーで瞑想

友人に聞いたのですが、最近では瞑想をわざわざ行政の就職支援のセミナーか何かで教えるそうです。おそらくサマタ瞑想でしょう。間違いが起こりにくい呼吸系だとは思いますが、集中力は上がるとは思います。が、それでは限界があります。

それに変な光が見え出した時、きちんと対応できる人でないと、「私はイエスキリストの化身だ」とか、「仏陀の生まれ変わりだ」とかいうキチガイを生み出す可能性があります。変な自己啓発系の半宗教の人がそれを教えているのなら危ないかもしれないですね。

パチンコに行くよりはいいですが、「必見!最新のダイエット術」と同じような扱いではもったいないと思います。「何かに役立てよう」という前提があるのはまだまだ、アイツの内です。

それで中途半端に終ったり、変な光が見えたり幻聴が聞こえたりして、変な宗教にはまっていくかもしれません。だいだい変な宗教は瞑想を主軸とするヨガ教室などから始まっていますから。

サマタ瞑想では、ある程度までしかいけません。何かの利益を求めて、それを力んで下手にやると変性意識になるだけで「ゲームに熱中」しているのと同じような事になってしまいます。それでは心は落ち着きません。

それの快感に執着が生じるだけで、心がキレイになるどころか、何か必須条件を増やすことと変わりありません。むしろ害になっていきます。終いには「このダイエット法を広めよう」とする健康商法の人のように、それで儲けようとすら考えます。その結果がまさに就活セミナーで教えるという事業を行っている人です。わかりやすいですね。

消えた懐疑 曙光 155


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