決疑論的

どんな人の勇気や性格も耐えられないようなある悪辣(あくらつ)な二者択一がある。ある船に乗っていて、船長や船手が危険な誤ちを犯し、彼らよりも自分の方が航海の知識の点ですぐれていることを発見し、―そこで自分に次のように問う。どうだろう!おまえが彼らに対して暴動を起こし、彼ら二人を監禁してしまったら?おまえの優越はそうするように義務づけないか?だが一方彼らも、服従しないという理由でおまえを拘禁するのはもっともではないか?と。 曙光 436 前半抜粋

あらゆる選択をするときに指針となるのは、道徳・倫理・宗教上の戒律などです。経済社会にとっては経済理論だったり、国家の中では法律の類だったりします。

昔から、その判断基準を決めるために様々な議論がなされてきましたが、ほとんどは宗教の影響を受けています。まず根底にあるのは「人間とはどういった存在で、どういった価値を定めるべきか」です。それが決まらなければ、何も決められません。人以外の動植物より、人間は上位であり、人間の労力が金銭換算できるという前提がなければ、今のような経済社会はできていなかったでしょう。高い食材が、生命としての価値が高いというより、栄養素・エネルギー量や味覚などの直接的効用、希少価値、製品化までの労力が金銭換算されています。

客観的には根拠なし

しかしながら、普段使われている倫理的な基準を本当に限界まで突き詰めれば「根拠なし」です。根拠なしではないと言える人がいれば、まだ思考の限界にまではたどり着いていません。

「根拠が無いのに決めなくてはならない」そこが困りモノです。ある程度定めたとしても次は解釈問題になります。

学校でも、昔は「肌の白い自分たちは人間だが、この人達は違う」といって、人間の定義の解釈を、ウルトラCで解釈したりしていたというようなことを習いましたね。

うちの養子はうさぎですから、法律上は「物」として分類されます。権利義務の主体ではなく客体の方ですね。しかしながら、それは「法律上」であって、法律は人と人が争った時の解決基準です。法律上は物でも、僕にとっては物ではありません。

感情の行き先が基準

法律の世界でも、結局は感情の行き先が基準になっています。「それは悔しいだろう」とかいうタイプのものですね。現実ではある期日に起こる予定であった現象から生じる予定であった現在の経験や現物などを取り返せないので金銭換算したりしています。

それは争い事を強者の第三者が解決するという構図です。しかしながら、根本の基準である人は定義しきれません。一瞬一瞬で変化していますから。

倫理の基準とよくある問題

倫理の基準も、「どっちが被害が大きいか」くらいしか基準を定めることはできません。ウソをつくことはいけないことですが、人を殺すこともいけないことです。困っている人がいれば助けてあげなさい、約束を破ってはいけません、と教えられてきました。

では、よくある問題を今一度。

僕を殺そうとしている人に、僕が追いかけられている時に、僕はなんとか交差点で左方向に逃げて身を隠しました。

交差点に立っていたあなたは、包丁を持って追いかけてきた殺人の意図のある「僕を追いかけている人」に、「アイツはどの道に逃げて行きましたか?」と聞かれます。

その時に、「右に行った」など嘘をつけば、僕は助かります。

「左に行った」といえば、僕は殺されます。

さて、その時にどうしたら良いでしょうか。

「困っている人」の手助けをしよう、と義務教育ではよく言います。

現代の各国の憲法に多大な影響を与えた「毎朝同じ時間に起きるあの人」は、「左に行った」と答えなさいと言いました。

その理由は、殺されかけている、殺そうとしている、という関係は、「僕」と「僕を追いかけている人」の関係であって、あなたと「追いかけている人」の関係ではない、あなたと「追いかけている人」の関係にあっては、あなたは追いかけている人に「嘘をついてはならない」というものです。

では、どうしてウソをついてはいけないのでしょうか。

「困っている人」は僕でしょうか、僕を追いかけている人でしょうか。

さらに、僕が「僕は殺されかけています。追いかけてくる人がいるので、もし『アイツはどの道に逃げて行きましたか?』というようなことを聞いてきた場合は、『右に行った』と言ってください」と伝えて、僕と約束をした場合はどうでしょうか。

それに対する回答は各々にお任せします。

決疑論的 曙光 436


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