最悪の敵はどこにいるか?

自分の仕事を立派に果たすことができ、そのことを意識している者は、その敵に対して大ていは和解的な気分を抱いている。しかし、別個の立派な仕事をもっていることを信じていながら、それを守ることに巧みでないということが分かると、― 自分の仕事の敵対者に対する怨恨の念にみちた和解できない憎しみが生まれる。― 各人はそれに応じて、自らの最悪の敵がどこで求められるかを見積もるがよい! 曙光 416

人類史上、最も優れた発明は「ゼロ」の発見であるということを言う人がいます。しかしながら一方で、その「ゼロ」は、数学的には偉大な発明であるものの、この心にとっては最悪の敵であることはあまり語られません。

「ある」が「1」で「無い」が「0」とするならば、本当のところは1しかないのです。

この発明の最大の誤謬は、数学宇宙、数学的空間では有用であるというゼロの概念をこの心にまで適用してしまったことにあります。

これはアニメやゲームの世界を現実世界に持ってくるのと同じくらいに間違いです。

このゼロの概念こそが、この心にとっての最悪の敵といっても過言ではありません。

それでは、なぜゼロが最悪の敵であるのかをお話してきましょう。

それほど難しくは書くつもりはありませんが、もしかすると少しわかりにくいかもしれません。今回は軽くだけ書くとして、また別の機会にでも詳しく書きましょう。

ゼロを思い浮かべる時

ゼロという概念は、「無い」ということを意味していますが、本来自分の認識の中には「ある」しかありません。

もし「無い」を思い浮かべるとすれば、「今日は無い」とか「先ほどまであったが無い」とか「あると思ったが無い」という感じになるはずです。

今目の前に「耳かき」があるとします。

一本の耳かきが目の前にあれば、それは1です。

で、その耳かきは誰かが何処かに持っていったのか、目の前から消えたとします。

その時には「耳かきが0本になった」と思うでしょう。

しかし、本来は耳かきという概念もクソもなく、無理やり表現すれば、何も無いのです。

ゼロこそ不足の正体

そういうわけで、本来、自分が認識しているものだけが「ある」という感じです。厳密に言えば、実在としてあるのではなく、あると意識が認識して、その認識を心が受け取っている、というだけです。だから実体があるというわけでもありません。この心がそう受け取っているだけです。

さて、ゼロの概念を持ち出してしまうと、ファンタグレープが飲みたいのにファンタオレンジしかなければ、ファンタグレープが無いという風に思います。

しかし頭のなかにファンタグレープという概念がなければ、ファンタグレープが無いとも思わないはずです。

そして目の前にファンタオレンジがあれば、ただファンタオレンジがあるのみとなり、そこにファンタグレープを持ちだす必要はないはずです。

彼女がいるかいないかを1(いる)と0(いない)で示そうとすれば、示すことができますが、その際のゼロは、彼女がいるという状態との相対的な尺度でしか現れないのです。

例えば、今あなたの目の前に、「ケンちゃんラーメンの景品のボールペン」はあるでしょうか?

「バーコードバトラー」はあるでしょうか?

「ポケットトミカ P117 マツダRX-7パトロールカー」があるでしょうか?

偶然にもあるという人もいるかもしれませんが、あなたはおそらく上記の文を見るまで、今それが「無い」と思い浮かべることすらしていなかったはずです。

「そういえばバーコードバトラーが目の前に無いなぁ」と悶々としていないはずです。

世の中の歴代のすべてのものを「無い」と考えていたでしょうか?

では「無い」と考えていたものは一体どんなものでしょうか?

ゼロの概念を持ち出し、そうした「無い」という前提に立つと、あれもこれも不足を感じるようになります。

そうではなくて、ゼロを虚妄と気付き、まずは目の前の「ある」に着目してください。

そして「ある」を作り出しているものを観察してみましょう。

続きはまだまだありますが、今回はこれくらいにしておきましょう。

続き⇒ゼロの錯覚「この印において汝は勝つであろう。」

ゼロの錯覚

最悪の敵はどこにいるか? 曙光 416

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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