最後の寡黙

少数の人々は宝物を掘り探す人のような目に遭う。彼らは他人の魂に隠されているものをたまたま発見し、それについて知識を持つ。これはしばしば耐えがたい!われわれは事情によっては、生きている人々や死んだ人々をある程度までよく知り、その内心を突き止めることができるが、彼らのことを他人に語るのは苦痛となる。われわれは言葉ごとに無分別になりはしないかと懸念する。― 最も賢明な歴史家でさえ突然無言になることが、私には想像できる。 曙光 457

事実傍から他人を観察すると、その人のことがよく見えるものです。

自分と同じ特性を持っていたとしても、自分のそれよりは際立って見えてしまいます。

他人と話すことも、自分自身の意識の盲点探しには役立ちますが、観察するだけでも十分に効果はあります。

普段しないことをするというのも結構効きますが、対象が人であれば、とりわけ観察しながら話したり、むしろ話したりせずに脇から観察するだけでも十分に面白く、自らの持っている盲点を探すのにはかなり効きます。

十代の頃は京都駅ビルによく行きました。

歩いている男女の関係性を推測して観察するだけでも、客観視しているわけですから、「一生懸命だが、躱されている」ということもよくわかりました。それで自分を振り返ったりしていました。

ツッコんだほうがいいのか、黙っていたほうがいいのか

そういうわけで、他の人の際立った点があった場合、現在では十中八九、ツッコむことにしています。

あくまでツッコんだほうがいいことしかツッコみませんが、それもタイミングを見て、角が立たないように考えながら話します。

考えながらと言っても、実はあまり考えていません。考えなくても角が立たないように話せるようになったからかもしれません。

言って嫌われたらどうしようというのは恐怖心です。

もう既に恐怖心はありません。言って相手をコントロールしよう、というのも恐怖心です。しかしながら、もう既に恐怖心はありません。

相手の変化に執著しない

本来は話しても話さなくてもいいことです。それを話したからといって、相手が変わったとか変わらなかったとかいうことにも執著しません。

なぜなら何も困らないからです。

もともと話さなくてもいいことで、しかもそれによって相手が変化しようがしまいが、こちらは何も困らない、ということは、執着しようもありません。

意味なく無駄話をするというのもダメですが、相手をコントロールしようと思って自分都合でツッコんでいては時に喧嘩になります。

逆に、自らが傷つきたくないがために話さないということを「賢者は語らない」と、カッコをつけるのはタダの臆病者です。話さないのではなく、話せない、ということになります。ですから、賢者ではありません。

最後の寡黙 曙光 457


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