最大の「がっかり」

がっかり

「がっかり」

そう聞くと、期待があって、それが叶わなかったときに起こるものです。何かが「こうあるべき」「こうだろう」という思い込みがあります。表面上は「絶対にこうだ」というようなふうに表れているかもしれません。

そういう前提があって、そうなるだろうと予測、期待していたのに、それ以上の成果なら「おおすげぇ」「予想以上によかった」という感想が、それをダメな方に裏切られた場合は「がっかり」というものがやってきます。肩を落とすというふうに表現されたりしますが、まさにその通りに体も反応します。

ということで「期待するな」という話になろうかというのが通常の流れですが、そんなことは言いません。本来「期待」は意味不明です。

が、アイツはどうしても期待を当然のことかのように扱います。そして期待するなといっても「期待していない」と思い込もうとする方向にもっていって苦しみすら与えてきます。ということで特に「期待するな」には触れません。

一応、もっと詳しくがっかりのパターンを見てみましょう。

がっかりには、期待とそれに反する現象、もしくは思ってもみなかった裏切りがあります。結局、期待とそれに反する結果には違いありません。

モテたい、モテるにはカッコいいほうがいい、カッコよくなるためにはおしゃれがいい、おしゃれをしてみたがモテなかった。こういうことは頻繁に起こることです。料理教室も同じことですね。

たいていこういうことで思い浮かべるのは、経済社会や男女間での出来事が多いでしょう。親子の関係も多いかもしれません。「こちらはこれだけしているのだから」という見返りの類から、「男であるならばこうあるべきだ」といったような変な倫理観まで多種多様です。枚挙に暇がありません。

「それを無くすためには貪りや怒りを鎮めなさい」そういうことは自称「偉い人」自称「先生」の類がさんざん色々と提言もしているはずですが、そんなことは頭で理解できてもイマイチ納得いきません。

フラれた人は、フラれた自分をどうするかということにしか関心がありません。そんなところに「自分というものはない」などといっても耳をスルーするだけです。かといって、復縁に関する方法論などを唱えても仕方ありません。本当はそれも実現は可能です。よく、愚痴や悩みを聞く、ということが尊いことかのように言われますが、感情の抑圧はされないだけで、その思考のエネルギー自体は心を回転し続けます。

ちょっと前まで、どうして理解できても納得ができないのか、よくわかりませんでしたが、最近はっきりとわかるようになりました。フラフラになってる人にいくら言ってもわからない、そして繰り返し唱えることや何かの制限や他に意識を集中させることで、鎮めることは出来ても消すことはできない、ということです。

「そういうことはやめておこうか」といくら言っても、「何回も繰り返せば伝わるよ」と言っても、そうなるのは一時だけ、そんなことは次々に生えてくる葉を摘み取っているだけで、根っこからごそっといかねば、いつまでたっても振り回されるだけです。

少しそれましたが、「がっかり」です。

最大級のがっかり

がっかりしている時は、かなりチャンスの瞬間です。

その自分をどうやって紛らわせるか、ということではなく、「本当だろうか?」と問いかけてみてください。友達に電話してはいけません。

「本当だとしたら何なのだ、それがどうなのか?どうしたというのか?」とさらに問いかけてみてください。

認識に関することがいまいちよくわからない場合は、「刺激」についてだけ考えてみてもいいかもしれません。何かの刺激が常にあったはずです、あるのではないのですが、それを感じ取っていた、ということはなんとなくわかると思います。

どうして女性の裸体を見るとムラムラするのか、と思ったときには、目から入ってくる情報を細かく分解して捉えてみることです。そうすると大したものではないことがわかります。

「ではなぜだろう?」と少し立ち止まって考えてみると、必ず解釈というか思考的なものが何かを関連させています。この文字も実はただの光の差で、ある色を持っていますが、目は背景と文字、その色の違いを解釈しています。

しかし見ただけでは、ただの光の差でしかありません。目という感覚器官は光のエネルギーを光だと解釈しています。その光も、本当はあるかわかりません。そこに言語を解釈する思考が出番をエンジョイすることになります。音を聞けばタダの音、それが言語だと思うとなにかの解釈が入って判断が入り、感情が沸き起こります。

感覚器官は即時的でよほどの達人でない限りなくすことは厳しいでしょう。しかし、がっかりしているときは、記憶によりがっかりしています。臭いにおいを嗅いだ時はがっかりとは少し違います。高い香水だからいい匂いだと思ったのに嗅いでみたらがっかりした、というのは嗅覚に関するものではなく「思考」のがっかりです。嗅覚に関するものなら「臭い」であって、がっかりではありません。

がっかりした場合は、確実に記憶と期待という思い込みの前提がセットであるはずです。さっき起こったことでも過去の記憶には違いありません。

じゃあがっかりしたときは「実は何も起こっていないのではないか」ということがわかるチャンスですね。

最大のがっかり

どこか永遠に変わらないものを求めますが、それはなぜでしょうか。ティーンは「永遠」という言葉に惹かれます。別にティーンでなくてもそうですね。「永久不滅」などという言葉は、世間ではかなり好き好んで使われます。しかしそんなものはありません。

現象、事実は、「ただそれだけ」です。一瞬一瞬ですべてが変化しています。そこに解釈を混ぜ込むと話がおかしくなります。もっとタチの悪いことはそこに社会的解釈でなんとなく終わってしまうところです。諸行無常と言われて、盛者必衰の理と関連させて、「ああ、大企業も永続的ではない」で終わってしまうのがほとんどではないでしょうか。それもそうですがそれだけではありません。一瞬たりとも同じ状態であった試しはありません。なんとなく近い、それだけです。

外から刺激をもらって何かをごまかしています。そんなところに刺激を欲する気持ちをなくせとただ言われても、たいてい無理でしょう。それが五感とアイツの奴隷状態であることには、そのままでは気づくことはほとんどありません。

思考はずっと回転し続けます。五感は感じ続けます。目を閉じてもまぶたの裏側を見ているだけで、全く感じていないという状態はありません。

そんな中で、全てぴたっと止めてみれば最大級の至福が訪れます。

他の物では比べ物にならないくらいの至福です。

たまに「神が見えた」とか言う人がいます。見えることは見えると思いますが、それはまだ止まりきっていません。そしてそれは思考の産物であって実体はありません。ある程度の恍惚感はあるでしょう。そこで勘違いする方が危ないです。

今に集中すればそう言った瞬間はすぐにやってきます。「今」というと通常は現在進行形の「だいたい今」を思い浮かべますが、そうではなく「この今」であり、最先端であり、唯一の今です。じゃあ今まで見ていたのはなんなのか、ということにもなります。

しかしそれは単なる記憶であって、本当に実在しないことを実感します。今を捉えようとしなくても、哲学的な思考の限界を超えたとき、これは超常現象のようなものでも何でもないのですが、論理的な限界の「行き止まり」をすべて見つけて最後に「自分」までその対象にしてしまった場合は、勝手にそういった瞬間が訪れるかもしれません。

そういった意味で、「がっかり」した時は気づきやすい。そしてそういった認識がない状態の至福感に包まれると、ふと認識が戻った時に二つの感情が起こります。

ひとつは、「最大のがっかり」です。

求め、得ていた、あの時の躍動感や感動がチンケなものに見えてきます。そして、何もやる気がおきない、というような状態になります。「やっても仕方ない」というような感情が起こると同時にもうひとつの感情である「安心感」が起こります。

やる気がおきない、といっても虚無主義的な「人生に意味なんてないさ」や社会的な「どうせ俺なんかがやっても」という類ではありません。ネガティブでもポジティブでもないニュートラルな感覚です。

そしてこれは、至福感ということで「何かの刺激」の代わり、というわけではありません。「趣味のギャンブルの代わりに」というようなものではなく、不足への充足という構図ではありません。言葉で表現するのはこれくらいが限界で、体感でしかわかりません。「神が見えた」レベルの段階では不足への充足で終わっている可能性があります。あくまで怪しい薬物の代わりくらいなもので、低次元です。

それを体感したあとに、「フラれて悲しい」についてもう一度考えてみてください。馬鹿げて笑いしか出てこない、というようなことになります。幼子が必死で何かを訴えかけている時に、ほくそ笑む大人のような笑いです。そうなると「貪りや怒りはやめておこうか」ということが非常に良く理解できるようになります。しかし、まだそれらが完全になくなったわけではありません。


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