敵の意見

もっとも物分りのよい頭脳であっても、生来どれだけ緻密であるか、あるいはどれだけ低能であるかを測るためには、それらがその敵の意見をどのように把握して再現するかを、われわれは注意すればよい。このときそれぞれの知性の生まれながらの度合いが自分の秘密を漏らす。― 完全な賢人は、そうしようと望むわけではないのに、彼の敵を理想にまで高め、敵の矛盾を一切の汚点や偶然性から解放する。それによって彼の敵が輝かしい武器を持った神になったとき初めて、彼は敵と戦うのである。 曙光 431

よく敵と論争になった時、「意見そのもの」とは別の属性を根拠に、敵をねじ伏せようとする人がいます。「あなたのような人に言われたくない」というタイプのものです。それは傍から見ていて憐れです。

その根拠は宙に浮くどころか、その人が勝手に思い込んでいるものであり、その思い込みを1つずつ紐解くと絶対に根拠としては使えないことに気づくでしょう。

しかしながら感情が先立ち、そういう思考を働かせる前に、「仮にそうだとしても」と、居直るように思考がプログラミングされています。

その合理性なき根拠、思い込みの紐解きの過程で、だんだん気づいてくると、穴を掘ってでも入りたいくらい恥ずかしくなるはずです。そういう可能性を避けるためにも、まずは感情を落ち着けることを再優先しなければなりません。

一種の自己防衛のような形

感情を落ち着けることを再優先する、ということは一種の自己防衛のような形にはなりますが、絶対にそうしたほうが賢明です。

たまによく確認もしないままに感情に任せて怒りだして、事実がわかるとにっこりわらって誤魔化すおばさんなどが良い例です。ウインカーも出さずに、また、後方を確認もせずに急発進して、後ろからやってきた車に当たりに行くようなおばさんです。

相手が女性ならと、周りの人はすぐに許しますが、簡単に許してはいけません。そうやって「笑えば許されてきた」、という卑怯なやり口から目覚めさせねばなりません。居直る人に対しては、徹底的に詰めましょう。

反省する動機がない

ある哲学者が、「反省する動機がない」ことがもっとも劣悪だという旨を主張したことがあります。日本の法律では、わざと(故意)かうっかり(過失)かで言えば、故意にやったほうが悪いことになりますが、故意にやったということは「一応悪いということはわかっている」ということであり、それを乗り越えて犯行に及んだということが「ダメだこりゃ」ということになっています。

しかしながら故意に行った場合は、「悪い」ということがわかっているので、反省する可能性の因子は持っています。

世間では「わざとではない」つまり過失のほうが、まだマシだということになっていますが、「何が悪いのかわかっていない」という大問題を抱えています。反省する動機がないからです。

罪と罰という関係なら

罪と罰という関係ならば、故意が重くなるのはわかりますが、「反省する動機」に関して見ると、その因子が一つ欠けています。故意の場合は「わかりながら許容」、過失の場合は「わかっていれば許容しないかもしれないが(わかりながら許容する可能性は未確定)、まずわかっていない」という可能性を孕んでいます。

この手の人は何かを聞いても「はいはいはいはいはい」と、その場しのぎを繰り返してきました。仮にそれでその場をしのいだとしても、振り返って「なぜ怒っていたのか」ということを考えてみなければ知性はついていきません。

急な焦りとその場しのぎ

その場をしのいでもいいですが、その経験を糧にできない人が、以前、触れたお金を借りにくる人系の人です。危険性の予測ができなかったから起こった「急な焦り」、という事を経験しているのに、それを糧にできずにまた急に焦る、結果的に無駄な費用をかけてしまうというタイプです。

また、お客としては「甘い客」です。最高級のものを使っている、という「うぬぼれへの刺激」などで一番利益率の高いものを掴まされるようなタイプです。

都合が悪くなるとすぐに話しを切り上げようとしたり、無視したりしますが、それからは倍でも三倍でもブーストを掛けてボコボコにせねばなりません。

相手が「どういう理屈でそうなっているか」を自分で説明できるレベルにまで理解しているのを確認してから、話は終了です。

相手の意見に同調する必要はありませんが、相手が怒りなどへと向かったプロセスをよくよく考えてみなければなりません。

世のトラブルのほとんどは決着を付けなくてもよいことですが、それを理由に「居直る」というのは、温厚さや教養高さとは似て非なるものだということを肝に銘じさせねばなりません。

相手は何かの前提を持っている

意見の表面を見るだけではなくその奥の本音を探ると、確実に「ある達成したい事柄」があってそれを世間の正当性でオブラートに包み主張していることが大半です。

ディベートというものなどでは、一応根拠として使っていい材料が限定されています。それの範囲を超えるとまずいということになっています。

なぜならその根拠となっている材料の絶対的な正当性の証明はできないからであり、究極的には哲学的領域に入ると、全てが「根拠なし」になるからです。

究極的には「引き分け」にまで持ち込める

それはそれでいくら意見が対立しても、究極的には「引き分け」にまで持ち込めるということを示しています。そういうわけで、意見が対立した時でも、今までに負けたことは一度もありません。つまりは、勝つか引き分けしか経験したことがありません。

相手が出してきた主張を逆に利用するというやり方はかなり使えます。下手に主張すると逆にその前提を相手に利用されるかもしれないということまで考えられる人は稀ですから、かなり使えます。

問題が生じた時に意識に余裕を生み出す論証

専業主婦思想をひっくり返してみよう

しかもこちらは、相手が先に行ってきた手前「仮にその前提に立った場合」と、仮止めまでして究極は逃げられるという特典付きです。なるべく相手に先に喋らせるに越したことはありません。

「口が立つ」と自信たっぷりの中年女性などは、「嫁より姑のほうが偉い」など、たいていギムキョで体育会系の「専業主婦思想」をよく知っているだけですから、ひっくり返すのは簡単です。その前提を壊してもいいですが、逆にそれを利用しても構いません。

何言ってんのこいつ?

さて、表面的な意見ではなくその奥の本音についてです。少し異なりますが、前に少し触れましたね。

「達成したい事柄」があってそれを世間の正当性でオブラートに包み主張しているということについてのわかりやすいケースがありました。

人に投資

「人に投資をする」ことを考えているのだがどうだろうか?

ということを言ってきました。それは従業員の社員研修などではなく、一個人に学校の費用などを、なぜか融資ではなく「出資」して、卒業後10年間自社などに縛り付けようというというものでした。全然意味がわかりません。

意味がわからないものの、その場にいた弁護士や税理士に相談していました。相談された側も首を傾げるしかなかったようです。僕は笑いながら傍で聞いていました。

結局は奴隷制度のようなものであり、人身売買に近いようなことです。

教育資金を融資して、新規で株式会社などを作るにあたって出資して、取締役として活躍してもらう、そして、株主として配当をもらいつつ教育資金は返済してもらう、くらいが限界だと思うのですが、いかがでしょう。

その人は、教育資金を「出資」して、その後の労働賃金の数%をもらうことはできないか、という相談もしていたそうです。

それはその人の人生を「買おう」としているようなものです。担保の設定などがないと、学校卒業後に遠方に夜逃げされれば、もう回収はできません。

その人が、卒業後に働いて稼いだお金を搾取しようとしているわけですが、全然意味がわかりません。限界で教育資金は融資、その後は、株式会社というシステムくらいしか使えないことは明白です。一個人相手に融資ではなく、「出資と配当」というそんな契約書があっても無効でしょう。

オチになりますが、その出資先というか、「人に投資」の対象はキャバクラのお姉ちゃんだったようです。出資するから自分の手の内に入れておきたいという、なんとも憐れな本音です。

お金をあげるだけなら不安だから、法律的に縛れないか、ということを模索していたようです。アタマが悪い上に、モテたいのにモテない男だということで悲惨です。

ちなみに飲食店経営者です。もちろん友だちではありません。名刺交換もしていませんから。

「怨憎会苦」嫌いなものと会わねばならぬ苦しみ

敵の意見 曙光 431

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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