教育

教育とは生殖の継続である。またしばしば、一種のあとになってからの生殖の体裁つくろいである。 曙光 397

以前どこかで書いたと思うのですが、子孫を残そうとする生殖行動自体がDNAレベルで自分の情報を残そうとするということの表れなのであれば、書籍などはもちろん「自分の名前のついた橋」なんかを作ろうとすることも、後世に情報を残すという意味で生殖行動と変わらないという感じです。

ということで教育も生殖行動と変わりありません。もちろんブログの投稿配信も一種の生殖行動です。

何某か情報を後世に残そうという感じの部分がありますからね。

これも以前にどこかで書きましたが、教育と洗脳は紙一重で、お互いに相手に考えなどを植え付けていくことになりますが、教える側と教えられる側双方にプラスになるのか、教える側だけの都合なのかというその動機にこそ違いがあるという感じです。

教育が感情にフタをする

少し前に「嫌いなものは嫌いと認めることで好きなものが見えてくる」で書いていますが、常識が元で感情に蓋をしてることが多く、感情の機能がバグり、好きなものも嫌いなものもはっきりと感じることができなくなっていることがあります。

教育内容自体は確かに社会生活においては、「そうしておいたほうが無難」である内容が多いのですが、最大多数の最大幸福を大義名分に、人に制限を課しているものが数多くあります。

教育された内容を鵜呑みに

そこで問題となるのが、「決まっているから」とか「そう習ったから」という感じで、教育された内容を鵜呑みにしてしまうことです。

自分の頭で考えなくなるという面もありますが、それよりも無意識のうちに自分を制限していることにすら気付かないという点がもっとも危険です。

さまざまな規定の奥にある理由まで考える癖がついているのなら、比較的安全ですが、「校則に書いてある」ということを理由にしていくのであれば相当危険です。

世間では「問題を起こさない無害な人」として、教育上は評価されますが、本人にはデメリットだらけです。

「婚姻」について

例えば、「婚姻」について深く考えた場合は、その性質は所詮法律上や周りの人たちとの関係性くらいのもので、「結婚しているからどうのこうの」という常識的なものはあまり意味をなしていません(あることを是認する)。

別に男性が金銭面で責任を負うというところも決まっていませんし、女性は男性を支える側にまわるというようなことも決まっていません。

いわば、「二人の世界」、「二人の社会」なので、二人で決めていけばいいはずです。

意見が合わなければ解散、解散時の財産分与などは法律などに基づいて、ということくらいです。

ところが、物事の本質を「そう習ったから」という基準で捉えている場合は、そうしたことに気付くことができません。

そこで、常識の上での縛りに制限され、葛藤が生まれストレスを感じることになるのです。

常識を「教育」した親が出てきて「解散」

そしてそんな常識を教育した親が出てきて「男ならそれくらいはやれ」とか「嫁とはこういうものだ」としゃしゃり出てくるのは出てくればいいのですが、

「それがどうした」

と一蹴して終わりです。

一方が常識に縛られてそれを根拠に説得してこようとしても応じる必要はありません。

いわば同化の強制をされているということですからね。

いきなりやってこられて、「毎朝毎夕勤行をしなさい」と言われたらどうしますか?

そうしたことが「その家庭でうまくやっていくためには、必須の内容」であるため、教育といえば教育です。

「君たちで好きなだけ勝手にやっておきなさい」

ということになると思います。

一方が洗脳状態にある場合は、もう致し方ないでしょう。

と、これは極端な例ですが、

「二人でルールを決めようと思っても決められない、意見が合わない」ということであれば解散です。

「別に本当に絶縁する必要はないんだけど、今までの交友関係の全てを断ち切って、どこかで二人でスタートする気はある?」

と確認すれば、すぐに決着がつきます。

ということを友人に説法しているのですが、

そんな感じでここ数年、友人の9割が離婚しています。

教育 曙光 397

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ