懐疑家を安心させるために

「私は、私のなすことが全くわからない!私は、私のなすべきことが全くわからない!」― 君は正しい。しかし次のことは疑うな。君はなされる!いかなる瞬間にも!人類はいつでも能動態と受動態とを取り違えてきた。それは人類の永遠の、文法に関する誤りである。 曙光 120

まさに核心のような事を言っています。

「能動態と受動態を取り違えている」

つまり、「私は、『なす』」と「私は、『なされる』」の違いです。

換言すれば、やっていると思っていることもやらされているだけで、その反応を受け取っているだけ、というようなことです。

この「受け取っているだけ」というところがポイントです。

心は「認識する働き」

心は「認識する働き」です。

一般に言われる「心」は意識のことを指すようですが、その意識は、自分で作り上げたものでも、自分がオリジナルでゼロから生み出したものではありません。

何かの情報を得て、それを組み合わせたのが「自分だ」と思っていても、「組み合わせ方」すら組み込まれたものです。

ということは、意識は自分の中にしかありませんが、自分ではありません。

小さい時から、今に至るまでの「記憶」を思い返してみると面白いかもしれません。

友人であっても、今の職業であっても、今の自分の癖であっても、見渡す限りの「自分の物」であっても、ただ受け取っただけということがわかるはずです。

そして自分に「必要なもの」はすべて今目の前にあるはずです。

無ければ死んでいますから、「必要」といっても、普段自分の意識が快楽などのために「必要だ!」と思っているレベルでは考えないでください。

それは必要ではありません。必ず要ると書いて必要です。世間で言われる「必要」は「あったほうがいいもの」です。

どうして「頑張ろう」と思いましたか?

「自分が頑張って手に入れたんだ!」

と言っても、ではどうして頑張ろうと思いましたか?

その「頑張ろう」という動機はどこからやって来たのでしょうか?

頑張ろうという気持ちすらオリジナルではありません。

よくよく分解すると「頑張ろうと思った経緯」も「頑張ろうと思った動機」も「頑張った経験」も、その結果手に入れたものも、すべて受け取っただけでゼロから生み出したものではありません。

自動的に意図が生まれ、その実現プロセスで「頑張って手に入れた」ということが起こっただけです。

ほら、映画を観てるようでしょ?

懐疑家を安心させるために 曙光 120


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