感謝する

一グラン感謝の心と感恩が多すぎる。― するとわれわれは悪徳で苦しむようにそれで苦しむ。われわれは自分の自主性と誠実ともどもに、良心の疚しさの手中に陥る。 曙光 293

(※一グラーン(Gran)は、0.06グラム。薬量の単位<注釈より>)

過去記事を見ても、「感謝しなさい! 曙光 5」「感謝を拒絶する 曙光 235」と、またまた同じようなタイトルのものが出てきました。

感謝の効用のようなものが近年様々な方面で語られるようになってきました。もちろんしないよりした方がいいですが、闇雲に意味もなくしていると新興宗教にハマったような人になってしまいます。

しかし、それでも感謝を乱発する、ということはやはり本人の中では何かの効き目のようなものがあるから目がイッていてもそれを繰り返しているのでしょう。全く意味もなく、効果も無いなら闇雲にやり続けはしないでしょう。だからといって、感謝することによって、何か説かれているような「すごい存在に適う」ようなことが起こっていると断定するのは危険です。

感謝の言葉も言葉に出さないより出したほうがいいような気もしますが、自分がその言葉を聞いて、その言葉に誠実さがなかった時、ただのセリフで、「言わされていた」場合や「適当にあしらっている」と感じた時、つまり態度と合致しなかった場合はどうでしょうか。

おそらくそこに誠実さがない限り、響きはしないでしょう。

洗脳された新興宗教の集団に「ありがとうございます!感謝してます!」と乱発された時に、どんな感じがするでしょうか。おそらく「もういいよ」と思ってしまうはずです。相手の自慰行為に付き合う必要はありません。

どうしてあのような言葉を発すると気分が変わるのか、それは意識の中の解釈に一種の方向性が指令されるからです。現象は常に流れていきます。そこで記憶を頼りに現状を解釈し続けながら過ごしているわけですが、その解釈の際に幾多の解釈可能性の中から「感謝」の方向で解釈を行うようにアイツを雁字搦めにする、ということです。そうなると解釈結果である、反応としての感情が「感謝の方向」で起こります。そしてそこで起こった反応すら次の原因の一つになるということです。

これだけではありませんが、ひとまずは「感謝すること」を教えてくれた人を神格化はしないように、そういったことは一種の奴隷化なのだということを肝に銘じなくてはいけません。

感謝する 曙光 293


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