愛が愛として感じられるために

われわれは、自分に対して誠実であり、自分を非常によく知る必要がある。他人に対して、愛や親切と呼ばれるあの人道主義的な偽装をすることができるためには。 曙光 335

愛や親切と呼ばれるものは、ほとんどが偽装されたものであり、慈しみのように純化されたようなものではなく、何か裏にある自己都合の自己欺瞞のために使われたりします。特に語られる時はそうでしょう。

自己都合を覆い隠すため、つまりは一種の欲などを悟られないように、愛や親切という言葉に変換されているものがほとんどです。

芥川氏は恋愛の事を性欲の詩的表現だと言いましたが、そのようにぼやかせて都合よく「恋愛」という言葉を使っている場合が多く、「恋愛とは何なのだろう?」と自分塾を開く人はなかなかいません。ただ芥川氏は有名になってからもトンチンカンから抜けだせなかった人です。春画を集めるという収集癖がありました。

では、性欲とは、本当に仕方なく勝手に出てくるものなのでしょうか。あまり生理的なメカニズムの話ではありません。どちらかというと意識的なメカニズムです。排泄の衝動だけではありませんからね。

さて、駆り立てられるというのは本心で行っていることなのでしょうか。

毎度のことながらのお話になりますが、意識は、体からの体都合の信号によって苦しさを感じるように設計され、体のために様々なことをやらされているといったほうが正鵠を射ているはずです。

たまに「恋愛に酔う」ということが素晴らしいことかのように語られますが、目指すべきはそれをきっかけとして、自己観察や人間観察、特に自分の心が奥底で一体どういった動機を持っているのかを観るといいでしょう。

酔っているということは酔っぱらいです。

それほど褒められたものではありません。

タダの性欲というわけではなく、傷ついた自尊心の補填行為的な意味合いもあって複合的に心地よくなったりしているはずです。

そういった性欲や自尊心主軸の「自分都合」を取り除いて純化されたもの、つまりは体や遺伝子的な都合や、意識的な計算をさておいて、残ったものがあるとすれば、それがおそらく愛と呼ばれるものです。

人のために何かをやるとそこには、直接的な見返りはなくても、自尊心を満たすという一種の見返りのようなものがあります。

傍から観ると、その自尊心のために行動を起こしていると判断されることもあるでしょう。

しかし、相手からのお礼も、第三者からの評価も全てに影響されない行動ができたなら、それが本来の意味での親切ということになりましょう。

行動を起こしても、その結果が次の何かの原因にはならない。

つまり、その場で置いていくということです。

それは数時間単位のお話ではありません。

本当にその場その場で完結すれば、行動の結果を気にすることも、その結果を誰かに判断されたことに反応することも無くなります。

愛が愛として感じられるために 曙光 335


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