意識の分野の解消法その1 抵抗感の破壊

ある内容をその属性の外部から見てみるという状況が訪れない限り分からない、ということがあります。いつまでたってもわからない、という場合は、俗にいう井の中の蛙のようなもので、ある小さな世界の中にいるからこそ客観視ができないというものです。

それは、「外の世界に飛び出すのがいいぞ!」というようなものだけでなく、事実真偽は傍からでないと判断できないという場合があります。ある命題が、ある集合の中で無矛盾であっても、その真偽はその集合の外からでしか判断できないというものです。

一周年くらいまでは、このうつテーマを連続して取り扱っていきます。今回は直接的に関係無いような内容かもしれませんが、実は結構関係ある内容です。関係無いようであるような内容、もしくはその反対、また、一方でプラスになるかと思えばマイナスになる、もしくはその逆のパターンというものについて触れていきましょう。その場その場ではわからないことでも追々わかってくることがあります。

誰かに何かを相談した時によく出てくる回答は、

「そんなに気にするな」

「そんなに深く考えこむな」

というものです。残念ですが、それはできません。「気になる」、「考えよう」という、ある種のエネルギーがあるのにそれを押し込んでも、また復活します。せめて限界にまで考えてみるというのもひとつの方法としていいですが、義務教育程度の思考方法では、見える限界も知れています。

いくら考えても、考えきれないのは、思考方法にリミッターがかかっているからです。かかっているというより、かけられてしまっているといったほうが正しいでしょう。その状況でいくらアクセルを踏んでも、1速のまま走っているようなものです。

解明解決という視点

近年、ソリューションやイノベーション、という言葉をやたらと使いたがる人が出てきました。

それほどの言葉でなくても、以前の職場では「横文字はやめてくれるか」と定年寸前の上司にはよく言われたものです。あまり意味もなく横文字は使ってはいけません。狭義に意味を限定する時に限って、定義付けを先に行いつつ用いる、という使用法以外の横文字使いは、「カッコをつけたい」というだけですから、見る人によっては「青いのう」と思われるだけです。

問題を解明して解決するということは一般的な手法ですが、ある危険性を孕んでいるということについてはあまり触れられません。

問題や問題の原因を突き止めて対処しようというものなら、ソリューション、現にある手法を新しい活用法として用いてみようということなら、イノベーション、「それがどうした!日本語を使え!」ということはさておき、そういう言葉が多用されると、「そりゃそうだ」となってしまうことに問題があります。

問題ということが確定してしまう

問題だとされることが、本当に問題なのか、ということを考えてみればいいでしょう。確かにある側面では問題なのかもしれませんが、それは「ある側面」という相対的尺度を採用したから起こっています。

それならば言いたい放題です。

何度も触れていますが、中学生の時、「白い靴下しか履いてはいけない」と校則で決まっていたので、黒い靴下を履いていった僕は問題児として取り扱われました。

この時に、問題視されたからといって、自分が拘束され説教をされている原因が「黒い靴下を履いていったからだ」と短絡的に納得してしまえば、靴下の色が問題だということになります。

しかしそれを「決まっているから」という理由で納得できる気質は持ち合わせていませんでした。

黒い靴下が誰かに迷惑がかかるというもっともらしい理由があればわかりますが、勝手に意味もなく定めて勝手に悶え苦しんでいるのは学校側であり、こちらどころか学校以外のこの世の全生命体は何も困ってはいません。

しかし、「校則」という判断基準の上では、相手が正しいでしょう。

しかしながら、その正しさは、勝手な基準で勝手に決めていることであり、まさに自前の相対的尺度そのものです。どこにも絶対性はありません。

ただの相手のこだわりです。しかしこの相手のこだわりを採用してしまえば、自分が正しくない人になってしまいます。

認めなければ問題にもならないことを、自分で問題だと思ってしまいます。

これは、わかりやすい例ですが、同じような構図は社会にたくさん溢れています。

ある問題と、問題の解決策を提示されると、前提となる問題やそのフィールド自体の属性を無意識に肯定してしまうということです。

忍び込んだ前提

夏が近づくと、「自信のプロポーションで堂々とビーチに繰りだそう」というようなキャッチフレーズで、ダイエット商品を売ろうという試みがされます。残念ですが、雑誌も含めてメディア媒体の収入源は広告収入です。本当に誰かの為を思って書いている記事はほとんどありません。

たまに真逆のことを言ったほうが、意外性で売れるということで、広告というより単行本を売ろうとするということもありますが、先のキャッチフレーズほどまでいかないようなもの、つまり密かに忍ばせた安易な発言のほうが意外と危ないでしょう。

「自信のプロポーションで堂々とビーチに繰りだそう」

というものは、デブは恥ずかしいという事を勝手に前提においています。同時にモテることは正しいということも内在しているでしょう。

ダイエット用の広告のような記事であれば、それなりに抵抗感も生まれますが、そうではない軽いコメントのようなモノのほうがすっと意識に入ってきます。

以前、ギャンブル狂いの特集をテレビでやっているところを偶然飲食店で観ました。パチンコに狂っているギャンブル依存症(あれ?表向きはアミューズメントじゃないの?)の人の特集ですが、最後にコメンテーターのような人が、

「パチンコもたまにやる程度ならいいですけどね」

と言っていました。

たまにやるのはいいそうです。いえあんなものをやってはいけません。脱法行為であり、身を滅ぼす最たるものです。別にセリフとしていったわけでなく、個人的な意見でしょうが、そういった軽いコメントが蓄積されて、「それに狂うのはいけないが、そのもの自体は特に悪いことではない」という思い込みが作られていきます。

それどころではありません。

「飲む前に使用上の注意をよく読んでください」

というありがたいような一文は、「飲む」ことを前提にしています。つまり隠された暗示です。

そういった感じでたくさんのこだわりができていきます。

「カッコいいなぁ」と思う人でも、その周りにたくさんのファンのような人が取り囲んでいたシーンなどを見たからかもしれません。そしてそのかっこいい人がつけていたものと同じようなものを付けている人をカッコいいと思うということがあります。そういったタイプの「カッコいいなぁ」という感情がわき起こったとしても、安易にそれを運命的直感として取り扱わないほうがいいでしょう。

よかれと思って解明され、提示された解決案

以前、次のようなことを書いたことがあります。

広告の会社は、「就職活動に役立つ情報」と銘打って、よかれと思って書いているのかもしれませんが、その情報の反対解釈で相当恐怖している人がいます。

たとえば

「採用は25歳くらいまでですね」

と書いてあったとして、25歳までの人は安心します。
浪人や留年した人は安心するでしょう。
一方、27歳の人は恐怖で外に出られなくなるかもしれません。 怒りの本音より

ひとつ、その傾向が確かにあるようなことでも、その情報と、その解決策の提示によって、反対解釈で恐怖心が起こったり、ある限界を勝手に定めてしまうということがよくあります。

残念ですが、統計データというものはあまり役立ちません。

市場のような大規模な存在であれば役に立ったりしますが、個人相手にはあまり役に立つことはないどころか、下手に調べたりすると、そのデータの情報に縛られてしまいます。

そして、「採用は25歳くらいまでですね」という一文は、「就職」という選択肢以外はない、という前提も持っています。

もちろんそんな文章を読んでいる人は就職しようとしている人か、採用試験を行う側の人間か、ひとまず就職に関係するような人ですが、別に人間が生きる上で衣食住が揃えば問題なし、所詮、食って寝て出して、くらいしかしなくてもいい存在だということはとうの昔に忘れられたような一文です。

確かに情報として、一意見として、就職に関することなのだから間違っているとか正しいという議論は、あまり意味がありません。ひとまずその言葉を発した人の中ではそうなのだ、ということです。その人の意識を操作する必要はありません。

そこで問題があるとすれば、受け取り側です。深く考えこむなと言われても、たいていそのような意見に縛られてしまいます。

そういう時は、議論のフィールドを一段階ずつ上げていくことです。単純化していけばいいでしょう。

自尊心獲得ゲーム

解明解決策自体は、確かに誰かの「あるフィールド」での話です。しかし、本当に問題はそこなのか、どんどん問題を単純化していきましょう。相手のフィールドで戦おうとするから、負けを恐れて苦しむという事があるということです。

どうして相手に勝たねばならないのでしょうか。一体何の戦いでしょうか?

それは自尊心獲得ゲームです。

自らをすごい存在だと思いたい、そのために誰かに認めさせねばならない、と思っているから起こる争いです。

残念ですが、そんな必要はどこにもありません。

相手が認めた、と認識して勝手に満足するのは自分の意識です。相手を媒介する必要はありません。しかも相手を媒介しているように見えて自作自演です。

その戦いも、相手としているわけではありません。

実際に誰かと戦っているように見えても、自分の意識の中の虚像の相手と戦っています。もし仮に、現実に実在として客観的な世界があったとしても、自分は虚像の相手と、相手は虚像の自分と戦っています。

自分で勝手に基準を決めて、自分で勝手に苦しんでいる。

これが本来の姿です。

うつに対する提示された期限

風邪をひいたりすると、「だいたい2日くらいで良くなるでしょう」、という事を言われたりします。それは2日だから別に2日に縛られても短期間なので、「ほう、そんなものか」と思えるものです。

しかし、「うつ」などになると3ヶ月や半年など、想像するにも辟易するような期間を平気で言われたりします。

この苦しさがそんなにも続くのか、と思ってしまいます。

しかし、断言しますが、うつが治る時はすぐに治ります。一瞬か、長くても一日です。体調を含めると一週間くらいでしょう。

これは、期限の提示の縛りをなくすために意図的に、短く言っているわけではありません。

だいたい、疑心暗鬼の真っ盛りの頃には、「そう言って偽薬効果のようなものを狙うつもりだな」と、抵抗感が生まれるものです。

しかしウソではありません。そういった時もある、という属性のものでもなくて、本当にそうなります。

一瞬で治るものを、3ヶ月や半年もかけてしまう

医者は、そんなデータは無いと言うでしょう。

あたりまえです。そんな治り方をすれば医者になど行くはずがないからです。何でも論文に載っているケースしか信用できないというのが、欠陥です。

一瞬で治るものを、3ヶ月や半年もかけてしまうのは、「3ヶ月から半年くらいかかります」という言葉を聞くからです。

おそらく、「すぐに治らなくても焦ることはないよ」という、親切心でしょうが、「一瞬で治ることもある」ということも知っておいて欲しいですね。

まあ、「一瞬で治るなら、それは一時的な落ち込みであって病気ではない、なぜならば2週間以上続いた場合を『うつ病』と定義しているからだ」という返答が返ってくるでしょう。

え?誰が決めたの?

苦しければ2週間もクソもないでしょう。

では1週間苦しくて、3日空いてまた1週間の場合はどうでしょう。

苦しければ、それはどんなものであれ取り除くべきものであって、定義は関係ありません。

パニック障害に対する治療期間

10年以上前ですが、パニック障害が治るまでの期間は、半年以内が3割、10年以内が3割、一生治らないが3割というような説明をされました。今ではどう説明されているのか知りませんが、そんなことはどうでもいいことです。

今では確実にわかりますが、そんなにかかることはありません。下手な医者が下手なことをしない限り、もっと早く治ります。

セロトニンの関係というメカニズムに対するアプローチは結構ですが、それしかできないようだと、確かに提示されたような期間と確率になるのでしょう。

安易に「考え方や気持ちのもち方を変えろ」と言われても、困ります。

何をどう変えればいいのか、何時間でも何日でもかけてでも説明できないのであれば、そういった適当な事を言わないほうがいいでしょう。

それは論文を書くのがうまくなりたいと思っている人に

「書き方を変えろ、そしてとりあえずたくさん文章を書け」

とアドバイスしているようなものです。

間違いではありませんが、本質には何も触れていません。そんなアドバイスは幼稚園児でもできることです。

意志の力など必要ない

「気の持ちようだ!」というアドバイスがありますが、そういうことをいう人は体育会系であり、意志の力で何とかしてきたような人です。

残念ですが、錯覚を取り外したり、苦しさを解消するのに意志の力は要りません。むしろ邪魔にしかなりません。

意志の力、というと踏ん張りです。力んでいます。しかし集中ということに関して言えば、ふんばりの集中力は、大したことはありません。

ふんばっているということは、何かを抑えこもうとしていることです。それが負けそうな気持ちなどであれ、押しつぶされそうな感覚であれ、抵抗しています。

では、集中してリラックスするということを考えてみた時に、踏ん張りは有効でしょうか。逆です。緊張・興奮の方向に行ってしまいます。

ただ、リラックス状態がいいからといって、その時間を長くすることだけに特化しようとしてはいけません。

「リラックスしよう!」、というのも一種の緊張であり、頑張ろうとしてしまう事柄であり、「リラックスしなければならない」という属性は、慢性的に緊張感を与えます。

例えば、緊張を感じている時に、「今リラックスしていないから、うつが治る方向とは逆の方向に行っている」という思考からダメージがくるということです。

リラックスしていた方がいい、というのは事実ですが、「リラックスしていなければならない」という条件を忍ばせてしまいます。それが、うつ症状の治りを遅らせる一つの原因になることに気づいている人はあまりいないでしょう。

よかれと思って言っていることが裏目に出る、という一例です。

リラックスするだろう、ということでヨガなどをやる人がいますが、そんなことはしなくても構いません。やってもいいですが、ヨガをやることが後にリラックスの条件になってしまうからです。ヨガを生業にしている人は、それを商売にしている時点でほぼ素人ですから、あまり関わらないほうがいいでしょう。

心の動きを観察しながら我慢していることをやる

そんなことにお金を使ったりするくらいなら、何か我慢をしていたことをたくさんやってみればいいでしょう。

緊張状態の時は、やりたいことを我慢していることが多く、かなり奥底に眠っていてなかなか自覚できない我慢もたくさん眠っています。

この世は自分の世界であり、自分しかいないのですから、何をやっても構いません。ただ、何をやるにしても、自分の心の動きだけは観察しながらの方がいいでしょう。判断は必要ありません。ただただ、観察するだけです。

医者に何万円も使ったりするなら、一日でそのお金を使いきっても問題ないはずです。お金に対する抵抗感は大きいですからね。

抵抗の源流を探って、その根拠を論証してみてください。

何を根拠にするでしょうか?

誰かに聞いたような話でしょうか?有名なデータでしょうか?権威でしょうか?

根拠があるもの、それはすべて相対的な尺度での判断です。

事実当然のことは根拠が必要ありません。

障害がなければですが、今、目を開けていれば、おそらく何かは見えているでしょう。

そのことに根拠は必要あるでしょうか?

気の持ちよう、ではなく、気の解放の方がいいでしょう。体育会系の言う「気の持ちよう」は、我慢・奮闘ですが、我慢も奮闘もしてはいけません。奥底に眠った我慢を解放してあげてください。意志の力ではなく、意志の解放です。

試しにコンビニの駄菓子コーナーのお菓子を全部買い占める、という事をしてみても面白いかもしれませんね。

そんなことは許されないのでしょうか?誰が許さないのでしょか?

誰に何を言われても、それはただの音声であり、それを言語だと解釈するのは自分です。言語だと解釈してある理屈を作り上げて、判断基準と照らしあわせて判定します。

その判定をしているのは誰でしょうか?

その判断基準を採用しているのは誰でしょうか?

許すも許さないもありません。

全部自分で決めることのできることなのですから。


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