情熱を真理の論拠にするな!

この場合は、情熱=パッション(passion)ということで、殉教としての情熱という感じでしょうか。

世の中には「押しが強い人」がいます。その内容が理不尽であっても押しの強さでやってきたというタイプの人です。

たまに政治家でもそのタイプの人がいますね。というより、そういう人たちはそうした気質を利用されつつ、ほとんど傀儡ですから、それはさておきましょう。

新興宗教にハマった人というのは概して押しが強いものです。

「迷っている人々を救うことで自分の徳が上がる」みたいなことを本気で思っていますから困りものです。

教義の布教と懐疑と愛というロジック

そして今日その謳い文句は、「迷っている人に良い話を聞かせてあげないということは無関心であり、それは愛の反対にあるものである!だから、積極的に話を聞かせ、正しい道に呼び込まねばならない!」というようなものです。

つまり教義を布教しないということは、懐疑があるということも含みつつ、「愛がない」ということになり、「ろくでもない証である」とすら設定しようということです。

これはブラック企業でも同じようなロジックを使っていて、従業員に自爆させるさせるときに、「自分でも欲しくないものを人に売るのか?」という脅しから、「社会のためになる商品、自分で良いと思う商品を世に普及することが人類愛ではないか?それをサボるということは、あなたには博愛というものがない」と言うものにまで発展させるのが常套手段です。

「知らない人たちに教えてあげるということが、人を救うことになるのです。教えてあげないということは、自分だけが幸せならいいという考えであり、それは愛ではありません」

そんな感じで、宗教勧誘を美化し、信者の勧誘活動を加速させていくのです。

そして、情熱がない、活動をしないということは、「愛がなく、また、懐疑がある」として設定します。そしてさらに、その活動の熱心さを「信仰のあらわれ」として、賞讃するのです。

信じようとする自己説得

ただ、そうしたものは一見博愛のようでもありますが、その教義自体が誤謬であるという可能性も含んでいます。

「信仰」とは「信じようとする意志」であり、いわば疑いがある中の自己説得があります。そうでないと、それは当然になるはずです。

で、熱心に布教活動しているからといって、確かにそれはそうした「自己説得としての信仰」のあらわれなのかもしれませんが、それは懐疑に支えられているということを早急に知りましょう。

よく「信仰が足りない」とか「信心が足りない」みたいなことを言う人がいますが、信仰が足りないという言葉がそのまま示しているように、その本意は「自己説得」なのです。

疑う意識を無理やり押し込めようとする行為です。

真理であるのなら、信仰もクソもないはずです。懐疑もクソもなく、ただそれはアタリマエのこととして議論にすらなりません。

懐疑に対して、体育会系の根性論のような形で、意識を引っ込めようとすること、それが信仰です。

そして信仰が信仰である限り、懐疑が完全に無くなることはありません。

新興宗教の勧誘の人

最近、我が家にもよく新興宗教の勧誘の人が来るのですが、逆に脱洗脳なんかを試みてみようかなぁなんて思っています。

先日そんなことを言っていたら、タッチの差で帰ってしまったようですが、ポストに布教の冊子が入っていました。

以前に、応対したときは、「ドアを開けていただき、ありがとうございます!」とうるうるの瞳で言われてしまいました。

「心の扉を開けていただきありがとうございます」というような感じなのでしょうか。

いちおう去り際に「暑い中ですが、おきばりやす」的な事を言ったのですが、もしかするとそれが「脈アリ判定」になってしまったのかもしれません。

もしかして最近、新興宗教の勧誘の人がよく来るのはそうした感じで、訪問リストに「脈アリ」として記載されているからかもしれません。

情熱を真理の論拠にするな! 曙光 543


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