悲劇対喜劇

岩波の「図書」八月号の頭に「悲劇対喜劇」というのがある。(2008年8月)一部を引用しよう。

「人間が今日の現実に耐えて明日を迎えるには、涙で浄化し笑いで和まなければならない。

アリストパネースの古喜劇の笑いは和むには激しすぎる、と現代の私たちはつい思ってしまうが、当時のアテーナイ市の社会状況はそれだけきびしく、市民はそれだけ強くなければならなかった、ということではないか。悲劇も喜劇もそれだけきびしく強くなければ、涙にも和みにも値しなかったのだろう」

ほとんどテレビを観ないが、たまに人がみている時ついでに観てみる。
すると、当たり障りがなくなってきているような感覚を覚える。先日、きょうふのキョーちゃんの話題が出たので(キョーちゃんに似ている人がいたので)、動画を拝見してみた。ストーリー的な濃さは無いが、恐ろしく過激な描写であった。確か当時は90年代だった。この頃はコントなどにしろ、キョーちゃんに限らずかなり過激な作品が多々あったと思う。作られる作品が日々おとなしくなってきているのは、 おそらく単なる社会的な圧力やコスト意識だけではないだろう。

お金をかけないようにしていることも何となくわかる。 洗練さが消え、手抜きで単発的と感じることも否めない。 それでも、何とか成り立っているからこの流れは変わらないであろう。 では、日々洗練されていくべきものが、退化の兆しを見せているにもかかわらず、なぜ成り立つのか。

テレビを観る事。 それが常日常で揺るぎにくい日課であると結論付けるのは、あまりに短絡というものだ。それだけ平和になったと解し、喜ぶのがよしとするのか、 現実は未だに厳しく、娯楽への期待から乖離していると嘆くのか。世代間の情報格差が是正されるというのは、あまり無さそうに思える。選択肢が狭いほど、意識とは裏腹に選ばざるを得なくなる。 そうなれば一種の飼い殺しと成り得るだろう。

いずれにしろ、おそらく現代社会と密接な関係にある。 生活の数ある選択肢の中で、需給がそれぞれにあり、発信受信が成立していると言うことは、一方が求め、一方が与えたことに他ならない。 一種の鏡なのかもしれない。 その場凌ぎや言い訳、ぬるま湯と言う単語がよく似合う。

おそらく、悲劇や喜劇に頼らずとも現実を常に見続けられるほど、人間は強くできてはいないのだろう。 また、ある方向から見れば社会的現実だけではなく、人間と言う一つの存在であるだけで、非常に耐え難い現実であるとも言えよう。涙や和みに値する作品を切から願う。

悲劇と浄化、苦悩と解放

その昔、読書嫌いだった頃、夏休みに無理やりに本を読まされた記憶がある。国語が嫌いで嫌いで、本アレルギーにも近い状態だった。
畳の上で寝転び、クーラーもつけず小説を無理やり読んだ。素麺と西瓜が似合う和の空間は何か身軽さを与え、抵抗感を拭うようにして僕に本を取らせた。
夏が少しずつ終わりに近づいたこの頃、そんな少年時代を思い出すかのように常日頃読んでいる様な書物を離れ、文学の世界に浸ろうと悲劇を手に取った。

全ての罪とされるものと、各人の苦悩、葛藤、それが結末で死によって無へと回帰する。彼岸なるものへの羨望、畏怖、それらの絶対的否定。
各人の少しずつ変わりゆく心。巧みに隠された奥底での憧れ。劇中劇。怨恨と懺悔。終焉に起こる感情。体がスッと軽くなる。味わったことが有るようで無い瞬間。近い感情はいくらでもある。それらの因子は初めから僕は持っていたはずである。悲しいわけでもなければ、哀れに思うわけでもない。一言で表せない感情を約400ページの旅で味わった。
ただ、非常に気分が良い。この気分の良さもまた、一言では表せない。こんな風にして、思考を休ませ感情に生きた一日。これもまた、悪くは無い。(2008年8月)


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