悲劇と音楽

たとえばアイスキュロスの時代のギリシア人のように、心情の根本的な調子が戦闘的である人々は、なかなか感動しない。しかし同情が一度彼らの厳しさに打ち勝つと、それは彼らを夢うつつのように、「魔物の力」のように感動させる。 曙光 172 前半

アイスキュロスは、古代アテナイの三大悲劇詩人の一人とされ、悲劇を確立させたとされる人のようです。

さて、心情の根本的な調子が戦闘的である人、つまり一般的な印象で言うと体育会系になりますが、体育会系が感動しないかというと、実は文化系よりもすぐに涙しているような気がしてならないのですがいかがでしょう。

おそらく、「心情の根本的な調子が戦闘的である人」というのはZ会ではないかという推測が立ちます。

Z会は好戦的だとされていますから、おそらくそうなのでしょう。

しかし、Z会の中でも図太く大便がスルッと出る人もいれば、根本はZでも繊細な人もいます。

繊細な人は感受性が強い傾向にありますが、感受性が強すぎて逆に冷めた目で見ることがよくあります。

おそらく一般的な臨場感よりも少し高い立ち位置から傍観してしまうからでしょう。

例えば、一応感動することを目的として作られた制作物を作ったりそれを観ても、感動どころか冷めた目で見てしまったり、時に爆笑してしまうというということが起こります。

事実関係は知りませんが、世の哲学に飽き飽きしたサーリプッタとその親友モッガラーナは、群れて遊ぶ人々(現代で言うウェーイですね)を見て「いやいや、そういうのは違う」と思って出家したとされています。

「みんなで仲良く楽しく」

が、世の中では非常に良いことだとされていますが、それを「違う。そういうことじゃない」と思ったということです。

この手の人に対して「社会復帰」とか「自立支援の群れ」など何の役にも立たないどころか冷めた目で見られてしまいます。

「みんなで仲良く楽しく」

と言えば文化祭・学園祭ですが、あの手のもので例えばクラスで演劇などをして、その舞台が終わった時に涙するほどの感動をする人がいますが、未だに理解できません。

非常に冷めた目で見ていました。

高校の文化祭の時は、その演劇に出演していたにも関わらず、何の感動もなかったどころか、悪寒がしました。

感動を売りにした番組

さて、感動することを目的として作られた制作物を観ても、感動どころか時に爆笑してしまうというということが起こります。

つい先日、Z会インドの方のカレー屋に久しぶりに行った時のことです。

するとテレビ画面には「愛は地球を救う」という旨の番組をやっていました。

よくよく論理構成をときほどきながら、因果関係を考えて観てみると、何の関連性もないことがすぐにわかるはずです。

走っている方には申し訳ないのですが、走ることと恩人とは何の関係もない話です。

募金集めの番組なのでいいのですが、走ることと愛と地球を救うということがどう関連するのか昔からよくわかりません。せいぜいZARDの曲を懐かしむくらいです。

まあそれは別にいいのですが、それよりももっと印象に残ったことがありました。

みんなで踊ろう

あの手でよくありがちなのですが、「みんなで踊ろう」というものです。

残念ですが、「踊って、それが何になるのだろう?」ということを真剣に考えなくてはなりません。

最終的な言い訳は、それによってコンテンツを制作して、スポンサー、募金で収益をということでしょう。しかし、それは「踊って、それが何になるのだろう?」に対するストレートな回答ではありません。

「みんなで踊ることが何なんですか?」

ということです。

そういった冷めた目で昔から見ています。

それよりも何よりも、ジャニーズの方の「真剣でありつつもキレイすぎる顔」を映されるとなぜか笑ってしまいます。

そしてそれよりも、「天国のお父さんに笛の音を届けたい」とあれほど押していたのに、本番で何も聞こえなかったというコントラストです。

Z会インドの方のカレー屋には爆笑の声が響き渡りました。

悲劇と音楽 曙光 172


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