恐怖と愛

恐怖は愛よりも一層多く、人間に関する一般的な洞察を促進して来た。なぜならば、恐怖は他人がだれであるか、何をすることができるか、何を望むのかを推測しようとするからである。この点を思い違えると、危険で不利益になるであろう。反対に愛は、他人の中にできる限り多くの美しいものを見る、あるいは他人をできるだけ高く向上させるという密かな衝動を抱いている。その際思い違いすることがあっても、それは愛にとってはひとつの喜びであり、ひとつの利益である。― そこで愛はそうするのである。 曙光 309

人は時に動物よりも人間が尊いとし、特定の動物のことを経済動物と呼んだり産業動物と呼ぶことで、己の快楽を追求しようとします(経済動物 「動物と道徳」)。そして挙句、己の快楽のために間接的にも動物を殺戮しようとします。

ということで、そんな動物への蔑視が極端に表現された「狩猟免許の案内」と、生き物を殺すことで己を満たそうとすることへの戒め「不殺生戒」について書いていきます。

「狩猟免許」の案内

コンビニに行った時のこと、京都府が発行している案内の中に「狩猟免許」の案内がありました。

「京都府の畑や田んぼで猪や鹿などの被害で困っています」

という謳い文句で狩猟免許をとろうというような内容でした。

京都府の猪や鹿は、人間のせいで被害にあっています。

人間の勝手な驕りです。

被害金額の多寡よりも、共存しようという考えが一切浮かばない点について神経を疑った方がいい。

「被害にあっているので、代わりに殺してください」

ということです。

猪や鹿が人間を殺そうとしたことはありません。

どうして被害への解決案が、殺戮なのでしょうか。

「地域の畑や田んぼを守るために」

殺すという手しか考えない、ということです。

その驕りはどこからやってくるのでしょうか。

そういうわけで、京都府の方に以下のように連絡しておきました。

セブンイレブン等コンビニエンスストアで京都府の畑や田んぼでイノシシやシカなどの被害で困っている、という内容で狩猟免許取得の案内を出されていますが、被害が出ているからという理由で、それら動物を「代わりに殺してくれ」という内容にしか読み取れません。

京都府としては、地域の畑や田んぼを守るために、動物を殺すという手法しか考えられない、という解釈になります。

土地の開発で環境を壊しておきながら、大量の食物廃棄をしている一方で、このような事をコンビニなどで告知するということをやめていただきたい。

もし何かしらの回答が来れば、追記していきましょう。

京都府より回答が来ました。

近年、農山村地域では、高齢化や過疎化が進み、

①山際の耕作されてない田畑では野生動物の棲み家になる。
②田畑周辺の里山が放置されることにより、人目を気にせずに田畑に現れる。

など、野生動物に対する人間の圧力が減少してきており、農作物被害が拡大しています。

農業で収入を得ている農家はもちろんのこと、老後の楽しみとして、家庭菜園の野菜が、そろそろ収穫できると思った頃に一瞬にして野生動物に食べられるなど目に余る状況にあります。
このため、地域での防除対策(防護柵の設置、追い払い、バッファゾーンの整備、収穫残さの除去など)を

実施しておりますが、一方でシカやイノシシなど増えすぎた野生動物を捕獲することも重要です。

しかし、捕獲の担い手である狩猟者も高齢化などにより減少傾向にあるため、捕獲の担い手を確保していく必要があります。

今回のコンビニエンスストアでの狩猟免許取得勧誘チラシの配架については、広く府民の方に京都府での野生鳥獣による被害を知っていただき、捕獲等に御協力していただくことをお願いするものとなっていますのでご理解をいただきますようお願いします。

詳しくは、京都府HPでも広報していますので、参考にしていただきますようお願いします。

以下のように返信しておきました。

老後の楽しみとして、家庭菜園の野菜が、そろそろ収穫できると思った頃に一瞬にして野生動物に食べられるなど目に余る状況にあります。

老後の楽しみのために他の生命の命を奪うという考えでしょうか。楽しみのために殺される動物の気持ちになってみてください。

殺さないとできないような楽しみはしない方がいい、私はそう思います。

コンビニでこのような事を説かれると、それを見た人、とりわけ子どもたちが「楽しみのためには殺してもいい」、「邪魔をするなら殺す」という考えになっていく恐れがあります。

広く府民の方に京都府での野生鳥獣による被害を知っていただき、
捕獲等に御協力していただくことをお願いするものとなっていますので
ご理解をいただきますようお願いします。

農作物被害に対するその解決策として「殺戮しましょう」という手法を勧めるということをやめていただきたい。
殺戮以外の手法を講じて破綻するようなビジネスモデルなら、そのビジネスは失格です。設備投資額を回収できるように価格調整してでも、他の方法を講じるべきです。

少なくとも楽しみのために他の生命の命を奪うことは避けてください。

生きるために必要なこと以外で、無駄な殺生をしてはいけません。

他の生命を奪ってでも自らを楽しませようとする心を見つめるべきです。

京都府にはがっかりしました。
おそらく思いは伝わらないでしょう。
もうあなたたちとお話することはありません。

生き物を殺すことで己を満たそうとすることへの戒め「不殺生戒」

些か仏教用語的にはなりますが、生き物を殺すことを戒める「不殺生戒」というものがあります。仏教者が守るべき五戒(不殺生戒、不偸盗戒、不邪婬戒、不妄語戒、不飲酒戒)のうちの一つで、生き物を殺してはならないという仏教上の戒律です。

通常不殺生、不殺生戒が語られる時は、戒律の上での食事の面が話題になります。しかしながら、食事の面ですら、いくら菜食主義であろうが植物の命は奪われますし、衛生面への配慮や免疫機能を考えれば、必ず何かを殺してしまうことになります。調理における加熱は微生物を殺すことになります。また、体の中の免疫によって意図せず殺すことにもなります。

ということで、生きていく上で他の生命の命を奪わない、ということ自体は、細菌レベルまで検討すれば不可能です。

そうであるのならばせめて、不殺生戒を思索のきっかけとして、「自然界のルールを逸脱し、己の感情を満たそうとすることへの戒め」として捉えてみてはいかがでしょうか?

それは、生き物への殺生を禁ずる戒めを検討することは、「人を殺してはいけない理由」にも通じる良いきっかけにもなります。

不殺生戒と人を殺してはいけない理由

リンク先では、殺生と不殺生、そして人を殺してはいけない理由などに触れながら、不殺生戒の本意について書いています。

恐怖と愛 曙光 309

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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