思索家の社会から

生成の大洋の真中で、冒険家であり渡り鳥であるわれわれは、小舟よりも大きくはない小島の上で目を覚まし、ここでしばらくの間あたりを見まわす。できる限り急いで、好奇心を抱いて。なぜなら、にわかに風が吹いてわれわれを吹き飛ばしたり、波がこの小島を洗い去ったりして、もはやわれわれはだれもそこにいなくなるかもしれないから! 曙光 314 前半

思索家とは、もちろん思索する人を意味し、つまりはずっと何かを考えているような人です。思いを馳せ、考えて答えを探索する人というような感じです。その奥には、やはり知的探究心があり、知性への欲求があるということになりますが、裏を返せば、知に対する認知不協和の解消というような怒り要素もあるというような感じになりましょう。

それが言語ベースでの思考を伴ったものなのか、体感による確認にを合わせたものなのかは異なりますが、本来の意味での「philosophy=知への愛」を持った人たちという感じになるでしょう。自分の思想を押し付けようとするような思想家とは少し違った感じです。

社会思想家などは、その思想の実現に社会の変革が必要になる感じがするので、他人を巻き込もうとする傾向にありますが、思索家は単に自分で考えているだけの人という感じです。

さて、遊ぶばかりも嫌になります。しかしながら考える事が趣味というわけではなく、むしろ考えが終りを迎えるならと、それを望んでいるのに終わらないということがあります。

どうしてそれが終わらないのか、ということを考えた時に、もちろん論理上でどっちとも言えるという行き詰まりに達するという点ももちろんありますが、それよりもそこまで考えてもある意味で「的外れ」だという点がその最たるものです。

どういう意味での的外れか

どういう意味での的外れか、それはその思考、思索は自分を楽にはしてくれないということです。

通常、思考を用いる思索をもって全てが解決するわけではありません。なぜなら言語を用いた思考には、言語でラベリングできるだけの領域しか対象とならないからです。

そして施策の結果である考えに取り憑かれて、その考えが共感されないとき、理解されないとき、自分を苦しめてしまうということもあるでしょう。

思索しているふりをした怠け者

悩みが多い場合は、考えているようで考えていない場合がほとんどです。

ただ、もやもやする気分を何とかしようとしているだけで、本質的には何も考えていません。せいぜい自己弁護のための「相手を責めるような思考」をしているでしょう。

思索しているふりをした怠け者です。

なにか支離滅裂なことを言ったりしたりして、「不思議な存在」だと思われたいと思っている人もたくさんいます。

もしくは「理解されないくらいすごいことを考えている」と「思われたい」といった構図の時もあるでしょう。

思考・思索の限界にたどり着く

思考の限界にたどり着く、ということは難しそうですが簡単です。

ただ単に一段高いレベル、それが終わればまた一段高いレベルに持ち上げて考えていけばいいだけ、つまりは抽象的に考えていくということです。

通常思考する時、とりわけ思索をしているときなんかは、前提を疑わずに演繹的に物事を考えています。対象の定義をぼんやりとしたものとして考えながら、それらのネットワークを強化しているという感じになっています。

しかし、そうした具体的な定義や前提を通り越して、一段高いところから考えていくということがより思索を高みに誘ってくれます。

これには通常の演繹ではなく、弁証法的な方法が有効的です。つまり、ある対象の真逆の定義などを捉え、その前提となっている段階まで思考の対象を高めていくという感じです。

限界まで言語的に表現してみる

抽象的になっていくと、雰囲気だけになってしまう人がいますが、「言い表せないんだ」ではなく、それでも限界まで言語的に表現してみようとしてみることです。議論のレベルは一段上げつつ、理屈は具体化するということです。

そうすると、その方向に持って行きたい何かの「気持ち」に出会えます。

言語化できないからと情熱的に押し通すのではなく、冷静に話してでも通用するレベルまで持って行くことです。

そこに矛盾や曖昧さがあるのならば、その矛盾や曖昧さを徹底的に潰すことです。

そうすれば、「自分は何かの感情的な衝動があって、その結論に持って行きたがっている」ということが見えるでしょう。

それはどんな都合でしょうか。

それを探ると

「なんだそんなことだったのか」

ということに気付けるかもしれません。

そうなると世の中の思索家があれこれ言っている議論や意見があったとしても、どこが間違っていてどこが正しいか、どういう前提で、どの点が正しくてどの点は矛盾になっているか、などなどがはっきりわかってくるようになるでしょう。

何も低いレベルでの議論の中でああだこうだ論じ合わなくても、その前提になっているものや、前提の証拠のようになっているようなものをぐらつかせばそれで一気に話は終わります。

思索家の廻り道

思索家の社会から 曙光 314

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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