思索家の社会から

生成の大洋の真中で、冒険家であり渡り鳥であるわれわれは、小舟よりも大きくはない小島の上で目を覚まし、ここでしばらくの間あたりを見まわす。できる限り急いで、好奇心を抱いて。なぜなら、にわかに風が吹いてわれわれを吹き飛ばしたり、波がこの小島を洗い去ったりして、もはやわれわれはだれもそこにいなくなるかもしれないから! 曙光 314 前半

遊ぶばかりも嫌になります。しかしながら考える事が趣味というわけではなく、むしろ考えが終りを迎えるならと、それを望んでいるのに終わらないということがあります。

どうしてそれが終わらないのか、ということを考えた時に、もちろん論理上でどっちとも言えるという行き詰まりに達するという点ももちろんありますが、それよりもそこまで考えてもある意味で「的外れ」だという点がその最たるものです。

どういう意味での的外れか

どういう意味での的外れか、それはその思考、思索は自分を楽にはしてくれないということです。

考えに取り憑かれて、その考えが共感されないとき、理解されないとき、自分を苦しめてしまうということもあるでしょう。

思索しているふりをした怠け者

悩みが多い場合は、考えているようで考えていない場合がほとんどです。

ただ、もやもやする気分を何とかしようとしているだけで、本質的には何も考えていません。せいぜい自己弁護のための「相手を責めるような思考」をしているでしょう。

思索しているふりをした怠け者です。

なにか支離滅裂なことを言ったりしたりして、「不思議な存在」だと思われたいと思っている人もたくさんいます。

もしくは「理解されないくらいすごいことを考えている」と「思われたい」といった構図の時もあるでしょう。

思考・思索の限界にたどり着く

思考の限界にたどり着く、ということは難しそうですが簡単です。

ただ単に一段高いレベル、それが終わればまた一段高いレベルに持ち上げて考えていけばいいだけ、つまりは抽象的に考えていくということです。

限界まで言語的に表現してみる

抽象的になっていくと、雰囲気だけになってしまう人がいますが、「言い表せないんだ」ではなく、それでも限界まで言語的に表現してみようとしてみることです。議論のレベルは一段上げつつ、理屈は具体化するということです。

そうすると、その方向に持って行きたい何かの「気持ち」に出会えます。

言語化できないからと情熱的に押し通すのではなく、冷静に話してでも通用するレベルまで持って行くことです。

そこに矛盾や曖昧さがあるのならば、その矛盾や曖昧さを徹底的に潰すことです。

そうすれば、「自分は何かの感情的な衝動があって、その結論に持って行きたがっている」ということが見えるでしょう。

それはどんな都合でしょうか。

それを探ると

「なんだそんなことだったのか」

ということに気付けるかもしれません。

そうなると世の中の思索家があれこれ言っている議論や意見があったとしても、どこが間違っていてどこが正しいか、どういう前提で、どの点が正しくてどの点は矛盾になっているか、などなどがはっきりわかってくるようになるでしょう。

何も低いレベルでの議論の中でああだこうだ論じ合わなくても、その前提になっているものや、前提の証拠のようになっているようなものをぐらつかせばそれで一気に話は終わります。

思索家の社会から 曙光 314


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