思想家はどこまでおのれの敵を愛するか

君の思想と反対に考えることのできるものを決して抑制するな。口外せずにおくな!自分にそれを誓え!それは思想の第一の誠実に属している。 曙光 370 前半

かなりご無沙汰しております。bossuです。

何だかんだで投稿自体は1ヶ月以上ぶりですね。

やはり世間と接していると、俗世間の垢のようなものがついてきます。

久しぶりにアナリティクスを見ていたら、更新をしなかったにも関わらず、リピートユーザーさんの数とPV数、そして滞在時間の長さに驚き、「そろそろ書き出そう」と思ってしまいました。

以前からその傾向はあるものの、人によっては6時間とか9時間とか、最長で13時間以上という非常に長い滞在時間で、驚きました(半日以上ですね)。

さて、「思想家はどこまでおのれの敵を愛するか」です。

もちろんおのれの敵を好きになるか、ではありません。おのれの敵を「愛するか」です。

どこまでおのれの敵を愛せるだろうか?

基本的に敵を作る必要はないのですが、世の中の99%以上の人は、やはり錯覚のまま偏見で生きていますので、意見の相違もよくあると思います。

前にどこかかで書いたかもしれませんが、敵を愛するということは、敵を好きになることではありません。

嫌いな人を好きになることは構造上不可能です。

できたとしても「好きなフリ」という行動を取ることくらいです。

好きという感情を操作することはできません。

ただ、好きにならなくてもいちおう受け入れるくらいはできるはずです。

この「受け入れる」ということは、相手の意見に賛成したり、同調することではありません。

僕は食べ物としての「イカ」が好きではありませんが、別にイカが好きな人がいても、それはそれでいいだろうと思います。

そのような感じで受け入れてみてください。

何かを決定する時にバトルになる

相手のことを好きになる必要も、意見に賛成する必要もありませんが、問題があるとすれば、その人を含めて何かを決定しなければならないような場面で、意見が食い違うためバトルになることがあります。

しかしながら、別にその人と何か決め事を「本当にしなければならないのか?」を考えると、そんな決め事というのはそれほど滅多にはありません。

ということは、大半の出来事の中で取るべき態度は、「その人とかかわらない」ということです。

もしくは京都で伝統的に行われている「皮肉」という行動をとりながら一人で楽しむと良いでしょう。

何がしたいのかをはっきりさせよう

いつも自尊心を軸にして考えてみましょう、というようなことを書いていますが、相手との意見の食い違いで論争なんかになったときでも、その場面で「何がしたいのか」を冷静に判断してみましょう。

例えばある学問の解釈の問題で、誰か論敵とバトルになったとしても、お互いがその学問の奥深くまで自らがたどり着きたいという目的を持っているのならば、そのバトルは有意義なものになります。

もっとも意味がなく、そして、本当に無駄な構造としては、ただお互いのプライドが傷つくとか、そういったことで、ムキになって争っている様子です。

例えば本当に日本を良くしたいと思って、それぞれの国会議員が本当に意見を交わしているのならば別にそれでもいいのですが(まあ彼らは傀儡で、本当に操作しているのは官僚でしょう)、おっさんが飲み屋で資本主義対共産主義で熱く論争をしている様を想像してみてください。

もしくは、巨人ファンと阪神ファンの争いについて思いを馳せても良いでしょう。

その先に何の生産性も発展性もない争いです。

敵で遊ぶ京都の人たち

別に敵というほどのことではないのですが、少しイラッとする言動をする人を見かけるとあえてその人で遊ぶということが、古都京都では繰り広げられています。

これは誰も傷つけず、そして、自らもイライラを芸術的に昇華させるといういわば伝統技術です。

京都はよそ者を排除する、とよく言われますが、よそ者はよそ者でイラッとさせることを平気で言うため仕方ありません。

例えば、「もうこの歳になれば、体のアチコチが傷んでくるね」とか「もうおじいになったら、体のアチコチが傷んでくるわ」と言えばいいのに

「もう85にもなったら、体のアチコチが傷んでくるわ」

と自分が「85歳で介護も受けずに一応元気なこと」について触れて欲しそうにフックを投げてくることがあります。

だいたいこの手のフックで、「え、85歳なんですか?お元気ですね!」みたいなやり取りで、ご満悦の経験がたくさんあるのでしょう。

貪り、欲が見え隠れ

しかしこれは貪りです。

「褒めてもらいたい」という貪り、欲が見え隠れします。

そういうときは、時と場合によって無視してもよいのですが、あえて「え、85歳なんですか?お元気ですね!」に輪をかけたような「歯の浮くような接待」をあえてしてみましょう。

「健康の秘訣はなんですか?」に始まり、「今度ウチのおじいちゃんに言ってやってくださいよ」などなど、相手を限界領域にまで歓喜の世界に誘ってみましょう。

パブロフの犬

ただ、これは「もう二度と会わない系」の人にしたほうが良いでしょう。

あまりにやりすぎると「あの人に会うと褒めてくれる」というパブロフの犬のような条件付けができてしまいます。

一応その場は相手は喜び、自分も相手で遊ぶことができるのですからみんな幸せになれます。

ただし、相手の心が成長し、こういった出来事を思い返して項垂れてしまうかもしれません。

「バカにされてただけじゃないか」と。

思想家はどこまでおのれの敵を愛するか 曙光 370


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