思想家の寛容

ルソーとショーペンハウアーは― 二人ともその存在に人生を真理にあわせるという標語を記入するほど誇りが高かった。そしてまた二人とも― 真理を人生にあわせる― 彼らのいずれもが理解していたような真理を― ことが成功しようとしなかった点で、また彼らの人生は、旋律に一致しようとしない気まぐれな低音部のように、彼らの認識とならんで走った点で、どんなに彼らの誇りに苦しんだことであろう! 曙光 459 前半

「何でもわかりやすく」という流れがやってくると、「そうだカテゴリ分けをしよう」という発想がすぐにやって来ます。

その際は先に内容があって、後でカテゴリ分けするのが基本です。しかしながら、その逆ばかりになっています。その方がやりやすいということなのでしょう。

まあ、それはそれで構いません。

しかしながら、そういった分類方法を「○○系」や「ライフスタイル」などという規模の小さい分け方をして、それに慣れてしまうと、思想的なものすら、数あるスタイルの中から選ぶ、という視点のようなものになります。

しかし思想は思想であって、他人に強制をされないという意味で自由はあります。と言うより他人に行動は強制されても、感情までは強制されません(ただ、脳に電極を繋がれたり、薬を飲まされたりすると例外が起こる可能性があります)。

誰でも確認できるような「理」が真理

これは、他人と自分との関係であって、「人に強制されないから、何でもありだ」、といっても真理というものは一つしかありません。

先に誤解を避けるために、またまた記しておきますが、僕は宗教家ではありません。

真理と言っても「神がいるぞ」とか「最高ですか!」みたいなことではなく、「目が開いていれば何かが見える」というレベルの、誰でも確認できるような「理(ことわり)」だと思ってください。

真理とは何か?

誰にでも再現可能かどうかの確認自体を自分はできませんが(仮に他人の認識を自分が認識しても、それは「他人が認識している」という自分の認識ということで、「他人が再現したという証明にはならない」という問題があります)、それは今回はさておきましょう。

状態をどの方向から解釈するか

さて、そういった理をどの方向から解釈するかによって、見方が変わることはありますが、理はひとつしかありません。理を解釈するというより、状態をどの次元から解釈するか、という状態を解釈する際の理です。

環境が変われば理が変わる、というのは理自体がAという環境下のBという運動(状態)をCが解釈した場合のAが変わるだけで、この三点くらいがセットになったものがひとつの理なので、「環境によって変わるぞ」というのはナンセンス、というより次元・抽象度の差で、ある種の解釈の差です。

さてさて、例えば物質の状態を目で解釈すると、体積だったり色彩だったりという解釈が出来ますが、物質の状態を舌で解釈すると味になるというようなことです。

思想の数だけ真理があるということにはならない

そういう意味で、解釈による感じ方の違い、もっと言えば次元の違いというものはあっても、思想の数だけ真理があるということにはなりません。

思想の数だけ解釈はあっても、つまり思想の数だけ「これが真理だ」という主張があっても、勝手に人が決めて、あちらこちらで理が確定するわけではありません。

「真理が書いてある聖典に書いてあるから真理だ」と言ったように、カルト宗教などはすぐに自分たちの思想や妄想を「真理」だと主張しますが、誰にでも確認できて誰でも納得できるようなものでないと真理とも理とも言えないのです。

思想の違いを認めるという「思想」

思想の違いを認める、というのが世間では大人だと思われていますが、そんなことは人が決めることではありません。

「思想の違いを認め合って仲良くしよう」、と言うのはなんだか義務教育的思想を感じます。つまりそれすら思想だということです。

認める認めないというより、本来は干渉できない性質があります。行動的に強制ができることであっても、「信じろ」と言われて、できるものではありません。

嫌いな人が目の前に来て拳銃で脅されながら「私に惚れなさい」と言われてもできません。惚れることはできません。「私を抱きしめなさい」と言われて、「抱きしめる」という行動はできますが、そんなことはできません。

そういうわけで、「オレの思想は○○派!」と言ったり「オレはオレ教」とか言ったりするのは思想の内にいます。

思想というものは、タダの意識の中の考えでこだわりですから、大したことはありません。また、今までの情報が集まっただけですから、その人に責任があるわけでもありません。

思想と理は似ている部分があっても全く別物

思想と理(ことわり)は似ていますが、全く別物です。

毎晩飲みに行っては若者に説教する「おっさんのこだわり」と、「『時間とは何なのだろう?』というような哲学的な思索」を、同じ「哲学」という言葉で同一視するくらいの間違いです。

いわゆる思想はただの勝手に決めた(というより決められてしまった)基準です。そして、その命題の集合の外から正当性が証明できません。

その命題が、論理として一貫していても、その内だけの一貫なら、どんな命題でも作れてしまいます。

何かの命題を実現したとしても、

「それが何なんですか?」

と質問された時、「それが叶うと私は満足を感じる」くらいしか結果としてありません。

欲求と充足、怒りと排除、というだけの構図です。

世の思想(まあこの場合は社会的な思想でしょう)などその程度です。

なんだかすごそうに思えるような思想でも、あるプロスポーツチームのファンだというくらいの、雰囲気だけのものでしかありません。そんな「こだわり」と構図は同じです。偉そうな理屈をあれこれ並べても、その程度です。

「真理」と「真理とは呼べないもの」

日本語で「思想家」

そういう感じで考えると、哲学者たちを思想家と呼ぶのは少し変な気がします。

日本語で思想家となると、なぜか哲学者たちもそこに分類されています。哲学者たちが社会活動家や社会思想家とよく混同される感じがしますね。

まあ「観念論」を「気分だけの抽象的な案」、「唯物論」を「具体的で実質的な手法」と同じ意味で使っているくらいのレベルですから、混乱するのも当然かも知れません。

テレビ・雑誌・新聞、その他安物の書籍など、その程度だと思ってください。同じ言葉でも、どういう意味で使っているかはわかりません。

思想家の盲目

思想家の寛容 曙光 459

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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