忘れるな!

われわれが高く上昇すればするだけ、飛ぶことの出来ない人々にとっては、一層われわれが小さく見える。 曙光 574

世間の人は客観的データによって人や物を相対的に判断しています。だからこそ広告物などにおいて、データや権威が役立つのです。

何の肩書も持たない人が、何かを話し出すよりも、大学教授という肩書を持った人が話すほうが耳を傾けられ、信憑性が高いという風に判断されるという感じです。

それはひとつの偏見であり、人を盲目にしてしまうものですが、膨大な量の情報が浴びせられる中、日常そうした枠組みを元に情報を取捨選択していると言うふうに捉えることもできるでしょう。

物事を判断する基準

基本的に基準がないと物事を判断することができません。

それは例えばそれが化粧水だったとして、単に「化粧水」という名称だけが与えられ、他に何のデータも示されていない化粧水のパッケージが何種類か並べられていても、中身を試すことすらできないのでどれを選べばいいのかわからなくなるのと同じです。

そして、その基準は人によってまちまちです。

人によっては価格、人によっては何かの成分で判断するでしょう。

そうしたように、ある基準とそれに対応するデータがないと判断できず、その基準も人によってバラバラだという感じです。この基準は、前提となる知識によって構成されています。

基準としての「フレーム」とその変更

その基準がフレーム、枠組みであり、本能レベルを超えてたくさんの偏見が作られていっています。

逆に言えば、広告物などは、人のそうしたフレームに沿ったものであるというふうに伝えたり、特定のフレームを作り出して提示したり、場合によってはそのフレームを変更したりさえすれば、成果がでます。

特定のフレームを作り出すと言うものに関していえば、テレビで「〇〇が健康に良い」という風に伝えてみたりという感じであり、フレームそのものを変更するという場合であれば、雑誌や店頭ポップで「最新の研究で〇〇が最も効果があるということがわかった」という風に伝えてみたりするという感じです。

データ利用による専門性や信頼性、権威性の評価の危険性

そういうものに扇動されている人は数多くいます。

モテるためにダイエットをする、モテるために英会話を習うという人は、完全にそうしたフレームを他者によって設定されているという感じです。

商品選択であれば、そうした選択基準がないと判断できないということはわかりますが、それらの意味を超えて無駄な偏見をたくさん保持していないでしょうか?

スウェット上下を着ていると無視される

「人は見た目が100%」という感じで、身なりで人を判断するフレームができあがっていれば、その人の本質がどうあれ、外見で判断してしまうでしょう。

以前、パーカー姿とスーツ姿で通行人の態度が違うというようなことを書きましたが(優美さがない)、そう言えば、先日某大学に来賓で行った時の話です。体調が悪かったので、スウェット上下の寝間着のような格好で行きました。

体調が悪い時に革靴を履くと、さらに体調が悪くなります。なので腹を筆頭に体の保温のためにスウェット上下にスニーカーで向かいました。

「何事においても腹を最優先せよ」ということを徹底しているという感じです。

以前の大学の会合ではスーツ姿の人がたくさん名刺交換にやってきてくれましたが、スウェット上下だと、素性を知っている学生や知り合い以外の方にほとんど無視されました。

僕は、よほど面白そうな人以外に自分から話しかけたりすることはほとんどありませんので、特に絡みはありませんでした。

中身は同じのはずですが、彼らの中ではスーツ姿の人しか目に映らないということがよくわかりました。

僕の中では、そうしたフレームを持つ人たちと関わりたいとすら思わず、相手もそういう人しか相手にしたくないのだから、双方ともにメリットがあるというようなことがわかりました。

そうしたフレームを持つ人とでも関わり合いを持ちたいのであればスーツを着ればいいですし、特に関心がないのなら着る必要もありません。

「年収1000万円以上の人がいい」というようなことを言っている人からすれば、一文無しの阿羅漢は底辺にすら見えます。

「われわれが高く上昇すればするだけ、飛ぶことの出来ない人々にとっては、一層われわれが小さく見える」

という感じです。

忘れるな! 曙光 574

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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