強さの悪

情熱の、例えば怒りの結果としての暴行は、生理学的にいって、窒息の発作の恐れを予防する試みとして理解される。他の人々に己れををされけだす無数の傲慢な行為は、強い筋肉運動による突発的な充血の放水路であった。もしかすると「強さの悪」の全体はこの視点に該当するかもしれない。 曙光 371 前半

個人的には元々怒りタイプなので、特に欲はないのですが、何事も心の安穏の条件は少ないに越したことはありません。

怒りも、目の前の状況が不快だからそれを改善したいという欲として考えることができるのですが、こうした怒りにも幾つかのタイプがあります。

以前、欲の中にも良い欲と悪い欲があり、怒りの中にも良い怒りと悪い怒りがあるということを誰かが言っていました。

しかし根本問題としては、良い悪いを考え出すと倫理学的な命題にぶち当たるので、あまりそうした分類を元に演繹で考えることは避けた方が賢明です。

低俗な文化の国に干渉して自分たちの文化を教えてあげよう、というような考えを持つ人達がいますが、それも提案くらいで十分なはずなのに、戦争をしてまで壊していこうというような風潮がどうしてもあります。

まあある意味で、相手の国の中の制度的に国民に自由がないというか、選択権がない場合もよくありますからなんとも言えません。ただ少なくとも民間人をどうこうするのはおかしいはずです。

主義をもって活動すること自体が苦しみの元凶

基本的に主義をもって活動すること自体が苦しみの元凶だということにまずは気づいたほうがいいのですが、どうしても日本国内でもそうしたことをやりたがる人はたくさんいます。

「労働条件の改善を」と叫んでいる人たちも、「誰かのもとで勤める」という範囲でしか物事を考えられない状態になっています。

日本の制度としては職業選択の自由もありますし、スタート時点での財力には差がありますが、事業をスタートするのにそれほどの資金は必要ないものがほとんどです。それも考えもので、他人資本でもいいわけですからやり方ひとつです。

こうしたように何かの主義をもって自分の知りうる限りでのみ活動する、もっと言えば「声を上げる」ことしかできない人たちは、根本的に最も不器用な人たちであり、主義の内側でもがき苦しんでいるという感じになります。

生きることに不器用な人たち

枠から飛び出す

さて、思考の上でも行動の上でも「枠から飛び出す」ということは、普通はなかなかできないものなのかもしれません。

「日本人は改良がうまいけど新しいものを作り出すのは下手だ」と言われることがあります。

柔軟な発想を持って斬新なモノを生み出すことよりも、既に開発された斬新なものをよりブラッシュアップしていく、より洗練されたものに磨き上げていくのが得意だという感じです。

まあその原因のひとつは、「和」みたいなものですが、基本的にキチガイのような人を冷ややかな目で見て、「自分はまともだ」と思いたがる人達が多いからでしょう。

例えばコーヒーに砂糖を入れるのが普通ですが、日本ならば感覚としてちょっと冒険してみて黒糖とかメイプルシロップくらいです。

その他スターバックスにおいてあるようなものしか入れないでしょう。

思いつく限りなんでも試す

ところがイメージとしてですが、ペンキを飲んでしまう変態的な外国人のパンクロッカーなら、コーヒーに塩を入れたり七味を入れてみたりと、思いつく限りなんでも試してしまうのではないでしょうか。

コーヒーに塩を入れると本当にマズイのですが、それはやったことのある人だけが知っている不味さです。

ただ、こうした冒険的なチャレンジが、新しいものを生み出すきっかけになります。幾多の失敗はあるでしょうが、たどり着く可能性はあります。

そこまでのことをしてもいいですが、もちろんしなくてもかまいません。

ただ、こういうものを冷ややかな目で見つつ、人生がつまらないと人に愚痴をこぼすのは根本的に間違っているというだけです。

強さの悪 曙光 371

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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