弱い宗派

相変わらず弱体であるだろうと感じている宗派は、少数の知識をもった信者を得ようとあせる。そして量の不足を質で補充しようとする。この点が知識階級にとっての少なからぬ危険である。 曙光 316

宗派に限らず何かの思想団体のようなものは、なぜか「仲間を見つけよう」とします。そして数が集まらないならと、強者を集めようとしますが、たまに現れる強者にやられてしまう、ということがたまにあるでしょう。

労働組合も同じようなものです。一皮むけば一種の宗教であり、特に実際的な話より体育会系の延長の「先輩たちが築いてくれた云々」が入りだすと一種の信仰のようなものを感じざるを得ない場合があります。それは労働組合だけでなく、ある種の洗脳体系をもった企業でも同じことでしょう。

結局胡散臭い新興宗教でなくとも、何某かの思想を持った、特に社会的に人を巻き込みながらミッションを達成しようとするような団体はすべて胡散臭さが拭えません。

そしてそうした人たちは、やたらと仲間や優秀な人材を欲します。

組織に入ってくる優秀な人材

優秀な人材は優秀であればあるほど、その内にいるような人ではありません。「継いでくれ」と言ってもすぐにマスターして、「うーん違う」と、去ってしまいます。時に内部を解体して出ていきます。

そういう意味で、企業はどこも少し困ったような事を感じているでしょう。

優秀すぎるとどこかに行ってしまう、ということが実際によくあります。それを何とか防ごうと「先輩の恩」とかそういうことを言い出すのでしょうが、何の合理性もありません。

ある種の自信や実力の無さ

さて、どうして仲間が必要だと思うのでしょうか、いてもいいですが求めるものではありません。

自然に集まるのならまだしも、仲間を獲得しようというような動きが近年加速してきました。

それは数か、少数精鋭かはさておき、ある種の自信や実力の無さからではないでしょうか。

勝手についてきてしまう、というのならいいですが、「仲間を探そう」と仲間を求めてはいけません。

自分たちの思想を話すのはいいですか、「どうかあなたも仲間に」というのはよくわかりません。どうして話を理解したからといって加担までしなければならないのでしょうか。

しかも話を理解しただけです。賛同したわけではありません。

他の人からは賛同どころか非難ばかりの中に「理解」が現れたからといって仲間にはなりません。

主義や思想になんとか正当性をもたせようと躍起になっていることを憂いた方がいいでしょう。

弱い宗派 曙光 316


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