幻想能力

中世全体を通して、最高の人間性本来の、また決定的な特徴とみなされたものは、人間は幻想― すなわち、ひどい精神的な障碍!― の能力があるということであった。 曙光 66 序文

20歳位のときですが、小説を読んで横になり、うとうとしてそのまま眠りにつくとすごく夢の中が楽しくて仕方ありませんでした。

この現象を取り扱う際、哲学的思索の中で考えたことと言えば、現実を過ごしても夢の中で過ごしても、いずれにしても「情報を感じているだけだ」とふんわり思っていたため、どうせなら一生寝て過ごしたいと思っていた時期があります。

それは「現実から逃げる」というようなものではなく、単純に全て自分が認識して感じて受け取っているだけだとするのならば、身体自体はベッドの上で、何か楽しい情報さえ幻想の中で作り出して送り続け受け取り続けていればそれでいいのではないか、と思っていました。

夢の中で都合よく

確かに五感をフル動員して、極めて高い臨場感で体感するほうが、より楽しいのかもしれないものの、それには何かと準備なども要りますし、頭の中だけで完結できるのであれば、ある意味やり放題なので、こっちのほうが都合がいいとすら思いました。

そういうわけで、自分の中の理想としては、腹痛などを代表として体が苦しくない状態だけ作り、栄養摂取も点滴でよく、排泄もこの場で完結しつつ、悪夢の方向に頭がバグらない程度の向精神薬などを投与し続けて一生を終えてもいいと思いました。

特に宮沢賢治氏の小説などを読んだ後は空想的で幻想的な夢の中によく入りました。

「クラブに行って踊ろう」的なことよりも随分と楽しく、いわば現実的な楽しみなど、たかが知れているという感想でした。

そういう感じで、毎日どこにも行かず寝ていた時期を過ごしていたのですが、なぜだかまた社会の方に目が向き出します。

そのきっかけがなんだったのかは思い出せません。

しかし、少なくともそのような幻想に浸って過ごしていた時期があったことは記憶しています。

もしかしたら現実生活とのコントラストの中で、幻想の方を選んでいたのかもしれません。

今では、どちらでも特に変わりはないので、あえて寝て過ごすということを選んでいないという感じです。

でも、究極的には寝て過ごしてもいいと思っています。

幻想能力  曙光 66


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