対象者ごとの語彙と文体

使用している単語の持つ意味に対する印象は人によって異なりますし、普段その人がどのような環境にいてどのようなものを重要としているのかによって、同じ文章でも伝わり方が変わってきます。

そう言えば最近、若年層向けのマーケティング、特にライティングにおける国語表現に関することを調べていると、やはり文体にしても使用語句にしてもその人達に合わせたものの方がよりよく伝わるということを改めて気付いた次第です。

もちろんかつてからその通りだとは思っていましたが、語彙のみならず誤字脱字のあるような、文法すらもぐちゃぐちゃのものの方が、場合によってはより良く伝わってしまうということを突きつけられたような気がしました。

そして、昨日本棚で見つけた「アルジャーノンに花束を」を再読したところ、もちろん意図的に表現されたものであるもののぐちゃぐちゃの文に頭が混乱したりしました。

しかし、極端にはなりますが、一方でそのような混乱を招くような文であっても、そのような人達にあってはそれがもっともわかりやすい文章であるのかもしれないということを思いました。

今までに万単位で本を読んでいますが、未だに途中で挫折してしまう本があります。それは「ムーミン」です。読み始めて50ページから70ページでダウンしてしまいます。

人によってはスラスラ読めてしまう人もいるでしょう。

しかし僕にとっては過酷な読書であり、個人的にはムーミンシリーズを「魔導書」と呼んでいます。

そのような感じで、本ブログに関しても文体や語彙に関しては、自分なりにスラスラ書けるようなものしか使っておらず、人によっては全く意味が通じていないということも起こっていると思っています。

専門用語の弊害

さて、抽象的な表現を避け、解釈の幅を持たせないことを意図するならば専門用語を使うほうが理に適ってはいるのですが、あまりに専門用語を使うといくつかの弊害が待っています。

特に専門家の人などが「自分が習ってきたことと違う!」と躍起になって対抗してくるという点がその最たるものです。

そういう人たちを説得するのはエネルギーが要りますし面倒です。

「習ってきたこと、勉強してきたこと、それが何なのか?」とすら思っていますが、そうした人たちは、自分の中の固定観念と齟齬があるとムキになって反抗してきますから厄介です(といっても未だに誰も反抗してきてくれません)。

その上で、ニーチェ研究とかユング研究などなど、既に故人である誰かの発言を必死になって追いかけている人たちは、自分で恥ずかしくないのか、ということをよく思うわけです。

所詮他人の思考の軌跡をたどっているだけじゃないか、ということです。

それはそれでいいですが、「たったそれだけか?」ということです。

これは、「虎の威を借る狐」のような心理が働いているのだと思います。

自分が発言しても聞き入れてもらえないし、まず注目もされないが、有名人を盾にすれば露骨に反抗はされないだろうし、説得力は増すし、最初から注目もされる、という感じです。

で、それを職業にしてしまっていてはさらに問題が生じると思っています。例えば唯物論系の誰かを研究していて、「あ、違うわ」と思った時に舵が効きにくいという感じになると思うのです。

誰かの威を借りる事をした場合、スタートからある程度の地点までは楽ですが、その先が苦しくなる、そんな事が起こると思うのですがいかがでしょう?

十代の人に伝わるのだろうか?

さて、ぐちゃぐちゃの文体や少ない語彙の方が理解できる場合もあるという感じにはなりますが、自分が十代の時ならば、今自分で書いていることを理解できるだろうか、ということをふと考えました。

で、やはりおそらく高校生の時ならばほとんど理解不可能だったのではないかということを思いました。

かといって、そのレベルに合わせて書くとなるとどう書けばよいのかわかりません。

実際に会って話をすれば何とかなると思いますが、一方的な発信の場合は、相手が何に躓き、どのような固定観念を持っているのかが見えないため、言葉を調整することができません。

そういうわけで、どちらにしても無理そうなので、文体や語彙を調整することはないでしょう。

ということで、不明点があればコメント欄にご記入ください。

ただ、感覚的で雰囲気だけのものは意味が不明瞭であり、返しようがありませんのでやめてください。


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