家畜、愛玩動物、およびその同族

最も兇暴な敵として、はじめから植物や動物の間を荒らし廻り、最後には、衰弱し不具になったその犠牲のために、さらに思いやりさえ要求するような生物の側からの、植物や動物に対する感傷ほど、嫌悪するべきものがあろうか!この種の「自然」に面したとき、人間―もし彼が考える人間であるとすれば―にとっては何よりも真面目がふさわしい。 曙光 286

 「家畜」や「愛玩動物」果ては「経済動物」などという呼び方は、人間が人間との間で勝手に使っている言葉であって、当の動物たちからすれば言われる筋合いのない言葉です。家畜とされるネパールの山奥で出会った鶏が教えてくれました。

どのような動植物であれ、命あるものとは意志を伝達しあうことが出来ます。一種の、というよりそれが本質ですが、コミュニケーションということはそういうことです。相互の意志の伝達であり、一般的には言語表現とされていますが、それだけとは限りません。

そこでコミュニケーション能力ということを考えた場合、意志を伝えるという点と、意志を汲み取るという点が考えられるでしょう。

その方法論として言語しか無いというのは少し短絡的です。

人と人との間でも、態度や行動や、はたまたプレゼントなど、様々な手法で誰かに意志を伝えているはずです。

同時にそのようなものを読み取って、非言語であれ相手の意志を受け取っているはずです。

それが人間の間でもできる、ということは、相手が動植物でもできるということです。

そこで、「では植物に算数を教えることができるのか」というようなことを言うような人がいますが、そういうことではありません。

 互いに感じることができるのだから、伝えることにばかり躍起にならずに、目の前の生き物が発している意志をしっかり汲み取るという方向も重要になってくるでしょう。

面接でも営業でも、相手の立場や都合を考えないと、自分の何を伝えればいいかもわかりません。

それを聞いたところで、「何の役に立つのか?」と思われてしまっては、本来の意味からすれば何をしに行っているのかわかりません。

相手は世間一般の概念ではなく、自分の両親や先生でもなく、取引の相手です。相手の役に立たないことは、いくら伝えても意味がありません。

伝える前に相手の意志を汲み取る、その訓練は、やがて人間だけでなく、様々な生き物が対象であっても活きてくるようになります。

むしろ生き物だけでなく、それが表現という名の芸術であっても、何かつかみにくいような、それでもすでにある観念を汲み取るという局面にも、やがて能力が目覚めてくるでしょう。

家畜、愛玩動物、およびその同族 曙光 286


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