宣誓のひな型

「今私が嘘を言うなら、もはや私は決して真面目な人間ではない。誰でも私に面と向かってそういってよろしい。」―私はこのひな型を、法廷の宣誓とその際しきたりである神への呼びかけとの代わりにおすすめする。この方が強い。信心深い人でも、これに反する理由は持たない。 曙光 152 前半抜粋

宣誓というものがなぜ必要なのか、それは異なった考えを持つ人同士の中での一種の取り決めのような性質があるからではないでしょうか。言うなれば、宣誓などしなくても、あたりまえのことならあえて公に宣言するようなことではない、という違和感があるからです。言い換えれば、宣誓の内容に逸れてしまう可能性があるからこそ、宣誓で再確認している、ということになります。

意識は一貫性から逸れることを嫌う性質があります。特に周りに宣言した内容と食い違う内容が起こることは無意識的に避けようとする性質があります。その性質をわかっている、という点と、「宣誓の内容と食い違ってしまう可能性があるから」という危惧とが相まって宣誓というものを行うのでしょう。

すなわち、「言ったことに自分が縛られるという性質を利用したいということ」と、「言ったことと食い違う可能性自体が内在している事柄」だから誓うということです。

しかしながら、「言ったこと」は解釈が可能であり、また、言った、聞いたという記憶しかありません。それは社会では根拠として利用できそうなものの、本質的にはあまり意味のないことです。

ただ、誓を宣べるということは、たいてい禁止されています。ニーチェは法廷の宣誓と言っていますが、新約聖書マタイ五章34で「一切誓うな」と書いてあることについて、当の法廷はその箇所をどう解釈しているのでしょうか。同様に「神に誓いますか?」という文句でお馴染みの結婚式運営側にも質問してみたいですね。いまだに理解できる回答を聞いたことがありません。

誓ったところで何?

そんなことよりも、誓ったところでそれが何になるというのでしょうか。誓うということは、誓ったことに反してしまう可能性を内在しているということです。心の変化を認めつつも態度は変えない、という行動の約束であり、あまり意味をなしません。むしろ意味があると思っているのは誓わせている側です。「誓ったよね?」を根拠に後々脅そうとしているだけであり、「なんで今誓ってくれないの?」という現在の脅しでもあります。

「なんで誓ってくれないの?」ということになれば、誓う必要がないという旨を伝えたいところですが、それを伝えても、「じゃあ誓えるよね?」という追い打ちがやってきます。

誓いというものは、一貫性を保とうとするアイツの機能を利用して束縛しようとするものです。そんな手には乗ってはいけません。

独りしかいないのに自作自演、独立自由なのに自由ではないかのような錯覚を保たせようとするようなアイツの巧妙な手口ですから、パフォーマンスであっても、やらないほうが賢明でしょう。

宣誓のひな型 曙光 152


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