客観性の賛美者に

子供のときその影響をうけて育った親類や知人たちの、種々様々な感情や強い感情は認めたが、知的な正しさに対する鋭い判断や喜びをほどんど認めたことがなく、したがって感情の教養不足を取り戻すために最上の力と時間を費やした人は、成人したときどんな新しいものでも、どんな新しい人間でも、たちどころに彼の心の中に愛好、嫌悪、嫉妬、軽蔑を換気することに気がつく。この経験から圧迫され、それに無力感を抱いて、彼は感覚の中立性あるいは「客観性」を、不思議なもののように、天才または稀な道徳の事柄として賛美する。そしてこれもやはり単に訓育と習慣の子供にすぎないということを信じまいとするのである。 曙光 111

一部抜粋という感じでもよかったのですが、一応「曙光」のこの箇所はフルで引用しました。少し換言しておきましょう。

正しく自分塾を開かぬままに、成人してしまった後に、「そうか、いままで自分で考えたり感じたりせずに、大人の言うことを聞きすぎてきたんだ」と、「誰にも指図されず、自分で決めると決めたんだ、自分の好きなようにするんだ」と奮起した際に、レールから少しはみ出そうとしてみるものの、どこで何をしていても、やはり昔からの好き嫌いが出てきてしまう。その「過去の遺物」を取り除くのに中立的で客観的に見れるという立場があることを知り、「そうかこれだったのか、これならば呵責もない」と、「自らの意志よりも全体主義、極端よりも中立、主観よりも客観という基準」を選び、大人主義に鞍替えする。しかし、そのプロセス自体も結果も、かつての習慣から帰結されたものにしかすぎず、大人によって、大人にされてしまった。大人からの呪縛から逃れようとして、自分も大人になってしまった。しかしこれは自分で勝ち取った結果だと思っている。誰にも指図されず、自らの意志で決めたことだと「信じよう」とする。

少し脱線気味かもしれませんがご容赦を。信じているということは疑っています。信じている、信じようとしている、信じまいとする、ということは確実に「疑い」がある証拠です。疑いを持たずに信じるということは論理上不可能です。

客観性が意義を持つのは、社会における蓋然性(がいぜんせい)を根拠とした決定の時の「説得」くらいのものです。

究極的には把握しきれないようなものを、不確定だがある程度確率の高いと「説明のできる」公式をもとに弾きだした結果をもとに、誰かを説得する時です。確定事項ではありません。絶対性は帯びようがなく、客観に絶対性を持ち込むのはナンセンスです。

客観性の賛美者に 曙光 111


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