実践的対処法 意識を傍観し感情をその場に置き去る

いきなり「自分というものは錯覚ですよ」といっても意味がわからないどころか、おそらく理解に向かおうとすらせず、すぐに匙を投げてしまいます。うつに対する実践的対処法としては、手始めに「意識を傍観し、感情をその場に置いていく」という手法はいかがでしょうか。

いかがでしょうか、ということはどういうことでしょうか。いわば半分仮止めのような状態です。しかしどこまでいっても安全です。

この自己観察、自己の意識観察や感情をその場で終わらせるということは、自分というものが実在していると思っていても、自分というものは錯覚だと既に知っていてもどちらにしてもできることだからです。

例えば、「お金」というものは実在がありません。ただの観念であり、情報です。お札を持ってきても、お金ではありません。お札です。お金という情報や観念は、世間の他の人たちが金額だけの財サービスと交換する価値のあると、思い込んで認めているだけの情報であり、お札は他人に主張する際のその証拠であり、交換の主張の権利が染み込んでいる証券ということになります。手形や小切手も同じですね。

決済の時に「お札そのもの」がやってこなくても、同額が口座に振り込まれ、通帳の数字が変動した場合に、「おい、お金をよこせ」と文句をいう人はいません。

同じように自分も実在はしていません。コギトこと「我思う故に我あり」が好きな人は、思っているから実在していると思っていますが、思って感じているからといって、実在しているという証拠にはなりません。

自分で考えているのだから、自分というものは「ある」に違いない、と思っていますが、本当その思考というものは100%自分なのでしょうか。外からの情報によって寄せ集められたものが自動で演算をしているだけかもしれません。

ここではひとまずそういった実在論はさておいて、実践的な「意識の傍観」と「感情をその場においていく」ということについて触れていきましょう。

意識の傍観

これは以前に友人から相談を受けた時に実際に提唱したやり方です。

端的には「言いたいことを言わせておけ」というものですが、通常は「周りの人に何を言われても突き進んでいくんだ」というタイプのものになります。が、この場合は、周りの人どころか、自分の意識すらも「言いたいことを言わせておけ」というものです。

ビジネス書のようなもので、経営者のとるべき態度のようなものに触れているような本では、今後成長してく段階で周りから「まだ若造だから」とかいう厄介みを言われることがあろうとも、「それを無視していきなさい、抵抗は必ず生まれる」ということが書かれていたりします。

その場合は文句を言ってくる人は他人です。しかし、他人どころか自分自身ですらも無視してみましょう。というものです。

正確には無視しているようで気になっていてはいけないので、無視するというよりも傍観するといった表現のほうがより近いニュアンスになるでしょう。

人が何かをしようとするとほとんど必ず抵抗が生まれます。それでは都合が悪いと思っている人がいるからです。その場合の都合は直接的な被害というよりも、その人の自尊心的な問題であり、例えば自分の部下が独立して、自分の十倍も所得を得るような人になられては、自分のプライドが傷つくというものです。体育会系にありがちですね。

何度も言いますが、別に体育会系のすべてがいけない、というものではありません。無駄に上下関係を意識しているからこそ、ちょっと都合が悪くなれば後輩を殴ったり、パシリに使おうというような思想を持っている人たちのことです。たまにすごく面倒見の良い、後輩の成長を素直に喜べるような人もいますから、それはそれでいいでしょう。しかし、先輩後輩というもの自体が根拠なしの虚像だといつかは気づかねばなりません。

さて、文句を言ってくる人です。

ともいう僕も、かつてはかなりの厄介みを言われました。独立する際には誰も反対してはきませんでしたが、勤め人の頃に、仕事をたくさんやると「ほどほどでないと体がもたないよ」という一見思いやりのようなオブラートに包んで、スピードを落とそうとする人もいました。

人との関わりですらそのように障害、妨害、抵抗のようなものがでてきますが、もっと厄介なのは、自分の頭から出てくる抵抗感、意識の中の「文句をいう自分」です。

自己論争からの解放

そこでやってしまうのが自己論争です。自分が何かを考えて、ある行動などをとろうとしている時に、自分より論理力がありそうな意識が、抵抗の弁論を始めます。

そこで、対抗して相手をやっつけようとしますが、相手も自分です。しかも自分が持っている、自分がコントロールしているような意識よりは、相手のほうがたいてい上手です。

そこで説得をされ、行動を諦めるということがよく起こります。その際に、相手は非常に強く、論理合戦ではなかなか勝てません。

そんな時は勝とうとしてはいけません。何かにつけて、勝たなければいけないと思ってしまいますが、強い敵を倒して嬉しいのはゲームの世界、お遊びの世界です。

逃げてでも自分が傷つかないのであれば、それで構いません。しかし相手はなかなかしぶとく追いかけてきます。逃げては追いかけられをするので、いずれは戦わねばならないのか、と思ってしまいますが、この戦いに一瞬で勝てる方法があります。

攻撃を全て無効化

それは、自分を霧のように、透明人間のように実体の無いものにしてしまい、相手の攻撃を全て無効化することです。

それでも相手は空振りの攻撃をしてきますが、透明人間なのだから傷つきようがありません。

漫画などでは、「それでもどこかにコア(核)がある」といって、中核をなす部分に攻撃を与えれば、相手を倒せる、というようなシーンがありますが、そんな部分すらありません。

この時、相手の攻撃にダメージを食らうことはありません。ただ、相手は言いたいことを言うだけです。透明な壁の向こう側、必死で何かを言ってはきていますが、直接に自分の体を傷つけることはできないように、遠くから空振りの攻撃を一生懸命にしている様子が見て取れるだけになります。

そうすると、相手は知らぬ間にエネルギー切れを起こします。こうして戦わずして相手に勝つことができます。

観察していただけ

していたことといえば、観察していただけです。意識を傍から傍観するように、自分の中に出てきた抵抗感を観察するだけ、たったそれだけのことです。

そうして、自分の中に出てきた意図が抵抗感無く、意識からの攻撃をバイパスした時点で、その意図が思わぬ形で実現したりします。

「思いっ切りやる」、とは、まさにこのことです。

何も奮闘して全力を出してやるということではありません。そんなことをしていては心身共にヘトヘトになります。

自分の頭に出てきた意識の抵抗感を切り捨てて、「やる」ということです。

別に特段何かの行動をやる時だけではありません。意識に出てきた、自分を攻撃するような全ての苦しい意識を、無効化するには傍観するだけで十分です。何か辛いような行動や考え方を採用して、苦しみながら戦う必要はありません。

意識の中で自分を責めるような事柄が出てきても、それを傍から静かな心で見てあげるだけで十分です。論理バトルで勝とうとしても、勝てないか、堂々巡りです。何の実りもない、無益な戦いです。

「ふーん。そうかそうか。でも、おまえは言うだけで、何もできない。そして、いくらあがこうが、私を傷つけることはできない」

ということです。

感情をその場に置いていく

しかしながら、一瞬でも苦しい感情や体感が来たならば、「やっぱり苦しいんじゃないか」と思ってしまいます。

実際は、何かが起こった瞬間、それが実体験であっても意識の中でのやりとりであっても、その瞬間は一瞬で過ぎ去ります。

詭弁でもなんでもありません。実際にその瞬間はすぐに去ります。すでに過去のことで、過去のことだということすら既に証拠もないようなことです。すでに記憶の中で、それが数秒前であろうが、そういった事があったということが今起こっているだけで、その記憶に縛られているような状態です。

それが未来への想像であっても、「未来への想像」ということをしたという記憶が今再現されているだけです。

この場限りとして次の瞬間に持ち越さない

そこで、そういう意識は度外視して、今感じている感情を「この場限り」として、次の瞬間に持ち越さないということをすれば、次の瞬間にはもう本当にどこにもありませんから、もう苦しくはありません。

また、起こっても、また置いていく、それだけのことです。起こっている間は、身体も傷めつけます。

それには単純に、この瞬間に意識を集中するだけで十分です。

ぴったり今この瞬間に意識が向けば向くほど、思考も感情も感覚も薄れていきます。同じように目を開いて目の前を見ていても、もちろん同じように見えているものの思考は働きません。

安心の領域

思考による判断も、その結果である感情も発動しようがないのだから、所謂ストレスというものは皆無です。うまく出来なくても、その認識をその方向性に向けるだけで、その分だけ負荷は減っていきますから、意味が無いことはありません。無料で、いつでもどこでもどの瞬間にでもできることです。

その瞬間には何もなく、何もないからこそ何も感じることがない、というような状態になります。しかしその瞬間にいつでも入れるのだから、それはいつでもどこでもあるものです。

絶対に誰にもどんなものにも侵されることのない、安心の領域です。そして、その領域には、いつでも自分が意図した時に入れる、ということです。

そして、気を許した瞬間に横槍が入ることも知っています。

「おい、そんな離人感がするようなことはしてはいけない。自分をしっかり持つんだ」

というような意見です。

これは誰の意見でしょうか。

束の間の安心感

言うまでもなくアイツです。

文句をいう割に、何もしてくれない、アイツが言ってきます。

「あの仕事はどうするんだ!出世はどうなってるんだ!」

と責めてきますが、仕事をこなしてもまた仕事を、出世をしても、さらなる出世を要求してきたりするだけで、対応しても束の間の安心感しかもたらしてくれません。

しかもその安心感は、アイツの騒ぎがない、というだけで、何かを実現したから、というわけではありません。そもそもアイツが騒がなければ、不安自体がない、不安を与えておいて、それに対応してあげたとしても、一瞬騒ぐのをやめて、また、不安を与えてくるような存在です。

アイツが勝手に騒ぐのを、自分が騒いでいるかのように同化してしまうと、アイツのそわそわの分だけ、自分が苦しんでしまいます。

部屋が寒くて苦しい、というのは、即時的な身体からの直接信号です。しかしアイツの場合は、勝手に騒いで、勝手に信号を送り付けてくる押し売りのようなものです。

勝手に、というのは、それまで自分が得た情報から収束的に形成された観念だからです。どこにも根拠はなく、ただ、言い返せないようなことだから、とりあえず採用してしまっているようなものです。しかし全ての主義などは究極的には全て言い返すことが出来ます。そんなことは相対的な事柄で、立場、見る視点によって真にも偽にもなることだからです。「それが無矛盾で真であっても、真逆の意見も無矛盾でまた真なら、あるひとつ考えが唯一絶対の理ということは認められない」ということです。

何人にも侵されないような安心感を感じて、何も損するようなことはありません。

本当にその瞬間に集中しているか

たまにそういうような安心感を感じた際に、まだ、集中しきれずに変な声などを聞いて、「自らは選ばれた存在だ」などということを言い出す人がいますが、本当にその瞬間に集中していると、声を認識することすらできません。音声が通り過ぎでも、その音声への解釈は発動せず、音声の一瞬一瞬がすぐに過ぎ去っていくのだから、「連続した音の結びつき」は起こりません。

選ばれた存在だ、ということは、誰かと自分を比較しています。しかし、その比較自体が必要ありません。

なぜなら相手というのは、仮に外界というものが実在していようが、また実体としては存在していない場合であろうが、五感を通して認識して、意識上で解釈し、その解釈結果という記憶によって、次の瞬間に意識の上の観念と照らしあわせて何かの判断をしている、というだけで、全て内側で起こっていることです。

誰かより偉くなったところで、「偉くなった」と思うのも「他人がちゃんと評価している」と思うのも、全て自分の中で起こっていることです。

自作自演の割に、外にアピールしようとしています。外にアピールして、その反応をまた解釈して一喜一憂しているのもまた内側です。

それは、ただの茶番です。

そんなところには、安心も、平穏も、俗っぽく言えば幸福もありません。

そんな茶番からは早く抜け出すことです。

感情はその瞬間にその場に置き去ればいい

騒ぐ心も、ただ無駄に騒ぎ、対応を駆り立てているだけなのだから、その感情は、その瞬間にその場に置き去っていけばいい、ただそれだけのことです。

いつでも、何人にも侵されない、あの安穏の中に飛び込む事ができるのですから。


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