嫌いなものは嫌いと認めることで好きなものが見えてくる

さて、世間でもお盆休暇だということで、嫌いなものは嫌いと認めることで好きなものが見えてくるなんてな感じで、うつテーマも更新していきます。

嫌いなものは嫌いだと認めていくと、好きなものが見えてきます。

すごく単純なのですが、常識なんかでこうした「嫌い」に関する感情は蓋をされていることが多いので、知らぬ間に好きなことすら見えなくなるほどに感情に鈍感になっていることがよくあります。

嫌いなことを嫌いだと感じることができない場合

嫌いなことを嫌いだと感じることができない場合とはどんな時でしょうか?

おそらく対象のことが嫌いであるということに薄々勘付きながらも、いままで培った常識とか、普段みんなが自分に持っているであろう「自分像」との乖離になってしまうだとか、先日の行動との矛盾であったりなどなど、意識の中での感情と思考のぶつかり合い、どの基準を採用するかというような葛藤があるからこそ、蓋をされているということが多いのではないでしょうか?

もちろんそんな「制限」は虚像ですし、常識など他人都合のものがほとんどですから無視しても大丈夫です。

なぜ、嫌いなのだろう?

ところで、根本的になぜ嫌いだという感情が生まれるのでしょうか?

それは非常に簡単で、本来の自分のあるべき姿から乖離しているからです。

いわば、思考の間違いを感情が示してくれているような感じです。

今に集中(全ての思考と感情をストップさせて今に集中してみましょう)してみるとわかりますが、刺激が少なくなればなるほど、思考や感覚が無くなるほど、幸せな感じになっていきます。

ということは、本来、何もなくても幸せなのが基本形です。

で、幸せ感というのは手に入れていくものではなく、抵抗というかマイナス要因を外していくというのが本当のところです。

すなわち、0からプラスして100点にするのではなく、本来100点であるのに、アイツこと自我がもたらす錯覚によって、マイナスに引っ張られ、0点かのように錯覚を起こしているということです。

だから、「〇〇をやると幸せになる」というのは、根本から間違っているという感じです。むしろ逆に、することをやめていくことのほうが正しいはずです。

ということで、「これが必要だ」という条件があればあるほど、マイナス要因を増やしていくだけになってしまい、錯覚を強化し、同化してしまうことになるという感じで考えてみましょう。

と、話が脱線しそうになりましたが、感情的に「嫌だ」と思うことは、本来100点である完全な状態に対して、思考などがズレているということを示唆してくれているということです。

思考のズレを示唆

感覚で言えば、腕に棘が刺さっていると痛いですが、抜くと痛みはとれます。

この時、痛み自体は、「棘かなんかは知らんが、腕に何か刺さっているぞ」と教えてくれているという感じです。

で、抜いても、痛みが取れるだけで、特に普段より気持ちよくなるわけではありません。でも、棘が刺さっている時よりは快であるはずです。

棘が刺さっていない状態が普通で、棘が刺さっている状態は不快です。

この時、「棘を抜くことで普通に戻るぞ」ということを教えてくれているというか、棘を抜く動機を与えるのが、痛みです。

これが意識で言えば「嫌いだという感情」です。

で、棘は、意識の中の思考です。

「そういう考え方は、本来100点の君からはズレてるよ」と痛みを示してくれているというような感じです。

もしくは「今のその状況、本来の君からはズレてるよ」というようなことを示しているということになります。

だから否定してはいけません。

この嫌いな感情を否定するということは、棘が刺さっていることに対して「痛みに耐えてこそ修行だ」とか、「意識のパワーで痛みを消してみせる」と間違った苦行をしている人とやっていることは同じです。

ということで、「嫌いだ」、「嫌だ」と感じた場合は、それを否定してはいけません。

ただ、後述しますが、「思考が間違っている」といっても、それを常識の範囲で矯正しようとすることは避けてください。

「嫌うことは道徳から逸れるので、そういった人たちのことを認めていくことが大切だ」

というような学校の道徳のような思考の変更は避けてください。

嫌だと思わなければ慈しみも成り立たない

嫌なことをしっかりと嫌だと思うことで、慈しみの心が生まれることがあります。

例えば、飢餓に苦しむ人がいるという状況に対しての一種の怒り、嫌だという感情がなければ、慈善事業というものは生まれません。

助けたいという「欲」、そういう状況を無くしたいという「怒り」が無ければ、そうした現象は起きないはずです。

だから、欲も怒りも完全に無くす必要はないのです。

錯覚が解ければ、タダ苦しむだけの無駄な欲と無駄な怒りは無くなります。本当ところを言えば、錯覚であり虚像であるため根本から無いのですが、その錯覚と同化することが無くなります。

この状況が嫌だ、この思考のループが嫌だ

この状況が嫌だ、この思考のループが嫌だ、という感じになっている時にはチャンスです。

その「嫌」という感情を無視すると、長い間感情のエネルギーは残りますが、感情を直視すると消えていきます。

そして嫌なことを嫌なことだと認めた時、「ではどういったものを望むのか?」というところが見えてきます。好きなものが見えてくるといった感じです。

「嫌だ」と感じながらも、「でも嫌だなんて言っていられない」とか、嫌だと思う事自体が「常識的に大人じゃないとみなされることだから」というように、案外嫌な感情を押し殺していることがあります。

そして、「好きなことを見つけよう」と思っても、そうした常識の枠組みの中から見つけようとします。

嫌だという感情を半ば押し込め、さらに、意識の制限の中で無理に選ぼうとするから、好きなことが見つからないのです。

ということで、まず第一ステップとしては、嫌なものは嫌だと感じきることです。

感じることへの恐怖が出たり、常識から逸脱しているかのように感じて抵抗が生まれることもありますが、その恐怖や抵抗も含めて直視してみましょう。

すると、ただ心のなかで起こっていた朧気な幻影だったことに気付くはずです。

あえて他の人に「嫌いだ」と吹聴して回る必要はありません。

しかしながら、「嫌いなのだ」ということは押し込めずに感じきっていきましょう。

嫌いな対象が爆笑の対象に

すると、僻みでもルサンチマンでも何でも無く、嫌いな対象のことが爆笑の対象になることもあります。

例えば、僕は広告代理店電◯が嫌いです。

でも、明らかに社会を先導しようとしているのが見え見えのステマ記事や露骨な広告などが出てきた場合に爆笑します。

「おーい。またこういう方向に洗脳しようという試みをしてるのか。憐れだなぁ」

という感じです。

美魔女を見ても爆笑します。

「ほとんど毎日、う◯こをしている」

と思っただけで爆笑です。

思考が間違っているからといって
道徳的偽善の方向に行ってはいけない

「思考が間違ってる」として、それで自分の望む方向の思考へとシフトしようとする時、例えば美魔女を見て、「嫌いだ」と思ったとした場合、逆の「自分もキレイなりたいのだ」というようなことを思い浮かべるのは少し違います。

まず、「この人達もほとんど毎日、う◯こをしているのだ」というところから考えを改めていきましょう。

ニーチェ風に言うと、

「歯間ブラシで歯間を掃除した後の糸を嗅いでみよ!」

ということです。

少し脱線しかけましたが、根本的に感情はほとんど思考の産物ですので(「蒸し暑いところから涼しい部屋に入ったときの安堵」のような感覚発端もありますからね)、嫌な感情が起こったときには、思考に何か問題があるはずです。

でも、思考を変えようとする場合にでも、道徳の時間のような常識基準で考え方を変えようとしてはいけません。そんなことをすると洗脳されてしまう恐れがあります。

常識の枠内で考えると、二元論化されたものや、限りある選択肢の中から選び直す程度のことしかできません。道徳的偽善の方向で選び直すのがせいぜいです。

ひとまずは思考を変更しようとするのではなく、「嫌いだ」という感情を否定せずただ感じきってみてください。

そうしているうちに、自然に好きなものが浮かんできます。

無理に考えようとすると、良いものは出てきません。感情を否定し、現状ブロックだらけの思考状態で考え直すとロクなことはありません。

嫌いなものを嫌いだと認めていけるようになったら、好きなものを好きだとより良く感じていくことができます。

そうして感情が本質を取り戻してくるに従い、自ずと思考も変化していくはずです。


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