商売に精通していないのが高貴である

教師として、公務員として、芸術家として、その美点を最高の価格でだけ売りつけたり、その上にそれで高利貸しをしたりすることは、― 天賦の才や素質を小売商人の仕事にすることである。人はその知恵を何といっても小利巧に利用しようとしてはならない! 曙光 308

 最近福祉関係の仕事をされている方とお話する機会がありました。福祉関係と言っても、運営は株式会社であり、どちらかというと福祉っぽくない方でした。

どういうことかというと、その方のお客さんは福祉関係者であり、その方は株式会社としてサービスを提供する側なのですが、意見の食い違いが多い、ということでした。

それは根底には資本主義と社会主義のような争いがあります。しかし、よくわからないままに資本主義と社会主義は対立構造なのだ、と各々の特徴だけ辞書で三行くらいだけ読んで理解したつもりで、漠然と持っている概念同士で話し合うから、争いになるだけです。

資本主義システムの使い方

マックス・ウェーバーが、プロ倫こと「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で詳しく述べてくれていますが、肝心なのは得た利潤の使い道と、使い道への動機です。これらの争いは、何のための利潤追求か、という点が盲目的に議論も理解もされない点につきるでしょう。

資本主義に欠陥があっても、その中でのシステムまで全てがポンコツというわけではありません。ハサミや包丁をどう使うか、というような問題で、「土地持ちだ資産家だ」で偉そうにしたり、「支配者だ被支配者だ」とするということは、包丁を凶器に使うようなことです。ブラック企業はその典型例であり、親が遺した不動産収入で祇園に遊びに行くことしか考えられない、という場合も同じことです。誰に対しての凶器かというと、もちろん労働者に対して、という点もありますが、一番の矛先は自らの心です。

「お金があるから偉そうにしていいんだ」

というのは、「お金がなくなった時には偉そうにしてはいけない」という恐怖心の裏返しであり、何としてでも今の資産を維持しようと、また、もっとお金を持とうと執着が生まれます。その執着は苦しさでしかありません。

では、利潤を得たり、お金を持つこと自体が悪いのか、という点になりますが、それは包丁を使うことはいけないことか、と問うているのと同じことです。

まさにそれが、プロテスタンティズムと資本主義の共通点であり、「利潤を再投資する」というやり方や、それに対する動機と、「たくさんお金を持って、たくさん消費して、快楽を得たい、誰かに羨ましがられたい」と思う動機との違いです。

つまりは、儲けをまた、新しいモノ・サービスの研究やインフラの整備や、大雑把に言えば、「社会が良くなるための投資」に使う、その方が、社会の豊かさは加速する、という考え方です。そのために利潤を追求するということです。

隠れた奴隷精神

しかしながらどちらにしても、直接的なサービスの享受か「社会が良くなったと感じる」かの違いで、お互い何かの満足感を得たいという動機です。もっと深い所になると、「人格者になれた」とか、ニーチェ的に言うと「これで神の子として認められるだろう」というような、隠れた奴隷精神があります。

大昔ですが、ボランティアをするのがいいのかどうかというような議題で、十代しゃべり場のようなものを見たことがあります。

よくある反駁ですが、その時に、反論側は「いい人だと思われたい、いいことをやったという満足感を得たいという意味で単純な消費と変わらない」といような事を言っていました。

まあそれでも、結果として、誰かの役には立っているのだから多少マシだろうということでした。

そういうボランティア推進型の方は盲目的になっており、なぜか「利潤を追求しながら」ということに抵抗のある方が多いのは事実でしょう。

先日お話させていただいた方が、福祉関係者の方に持つ印象というのは、「補助金にぶら下がっているだけ」という感じでした。

消費者的なことすら盲目

聞いた話ですが、例えば障害者の人がどこか福祉系の作業所に勤めた場合の賃金は15000円位だそうです。

一ヶ月働いて、15000円です。ここは日本です。貧困国と言われている地域の賃金の円換算ではありません。

どうして、そのような低賃金になるのでしょうか。

それは仕事っぽいことを形だけやっているだけで、人が必要としないものを生産したりしているからです。まだ為替差がありますから、諸外国でシステム化されて生産されたものに価格でもクオリティでも勝てないでしょう。だから売れずに、粗利もあがらず、よって賃金への財源がない、ということになります。

で、そこで、代わりになるのが補助金などと、個人への公的扶助です。ということは財源は税金です。ということは関係のない人たちが払ってくれているということです。

つまり消費者です。その方たちが消費者というより、運営している団体が消費者意識を持っている割にそのことに盲目的になっているということです。

残念ですが、そこそこの経営者が、利潤を上げるために生産商品やサービスを本気で考えたりすれば、必ず現状より生産による利益を上げることができるでしょう。

ということは、誰かから無償でもらう分を縮小することができるということです。

その際は価格を上げるという単純なことでなく、せめて今よりも「売れるもの」を開発するでしょう。売れるということは、需要があるということです。ということは需要のある所に、サービスを供給するという一つの「ぶら下がりではない社会への参加」ができるということです。それは誰もが嬉しい事でしょう。誰よりも、労働者本人が嬉しい事です。

働くことは辛いことだ、利潤を上げることは汚いことだ、などと思う前に、では、誰がそれを払ってくれているのか、ということです。人に寄付をもらっている割に主義思想を唱えてはいけません。国家や社会の前に、本来は、独りで生きていくのが基本形です。人にぶら下がっていてはいけません。

盲目の演奏家

以前、ネパールに行った時に、歩道橋の階段にはたくさんの物乞いがいました。まだまだ最貧困国と言われているところでは、そのような福祉的な面は進んでいません。

そうなると、物乞いをするくらいしかありません。

障害を持つ人だけでなく、嫁に行ったものの、暴力に耐えかねて家出をしたような人でも、学校教育を受けずに文字も読めないまま、慣習で実家にも帰れない人は行き先もありません。そんな時、ひとまずはその日をしのがなくてはなりません。

まだカーストの名残のある街で、激しく照りつける太陽の中、盲目の演奏家が太鼓を叩いていました。

その日の糧を得るために、歩道橋の階段の脇で、太鼓を叩いています。

ネパール人の友人に通訳を頼んで、少し話をしました。

「僕は物乞いじゃない。このように演奏をしている。この街の人に育ててもらった。だからこの街の人に少しでも何かがしたい」

そう言った彼と握手をしました。

その時の掌の温かさと、太陽にも劣らない彼の満面の笑顔を、僕は生涯忘れることはないでしょう。

商売に精通していないのが高貴である 曙光 308


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