名声の中の損失

未知の者として人間に語っても差支えがないということは、何という利点であろう!神々はわれわれから匿名を取り去って、われわれを有名にする場合、「われわれの徳の半分」を取り去るのである。 曙光 466

有名になることの何がいいのでしょうか。むしろ匿名の方が重荷はありません。

「誰々が語った」というラベリングは、利便性があるようで、それ以上に本質を覆い隠してしまうことがよくあります。

確かにある文章の解釈にあたり、誰が発した言葉かということを捉えることで単語の定義などへの「ぶれ」は少なくなるかもしれません。

芥川龍之介氏の言う愛とマザー・テレサ氏の言う愛は、概念が異なりますからね。

が、それ以上に執着を生み出してしまいます。

「本当にその人がそういう意味で言ったのかどうか?」

というところを判断基準にしてしまうようになるおそれがあるのです。

最後は自分を頼りに、といっても「自分」ではなく、「この体感」を頼りにしなくてはなりません。

さらに「誰かが言った」となれば、「言った/言っていない」といった議論になったり、その言葉の解釈で結局何もつかめないことになります。

そういった意味で、どんな名言とされるようなことでも、自ら再現し、体感していかねばなりません。

必ず食い違う認識の違い

自分と隣の人との世界が異なっても、類似した体験をすることは一応想像上ですが、できています。

同じ車に乗っていても、運転席と助手席では位置が異なるため、同じ車に乗っていて同じような景色を見ていても、それぞれ違った体験をしているはずです。

同じような景色であっても少し異なり、同じような体感でも、意識の上では違う見方をしているのが普通です。

運転に慣れた人なら気づくような危険でも、助手席に乗っている車の免許を持っていない人ならそのような危険に気づかない場合もあります。

車の運転なら、類似体験として、運転技術をなんとなく教えることができます。ハンドルを切れば曲がるとか、ブレーキを踏んだら減速してフロントに荷重がかかるとか、そういったことも解説が可能です。

しかし、意識の中の「集中」などは、類似体験をしてもらうことが難しくなります。言語でも、各単語の定義が異なるため、類例を示しにくいものは難しくなります。

物理空間に臨場感を感じながら具体的に説明できることと、抽象的な情報空間で臨場感があまりない分野では、伝える難易度が大きく異なるのです。

それでも、伝わったのかどうかの確認はできなくても、伝わる可能性が無いということもありません。

もちろん誤解というものもたくさんあるでしょう。

名声の中の損失 曙光 466


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