同情的なキリスト教徒

隣人の苦しみに対するキリスト教的な同情の裏面は、隣人の喜びのすべてを、隣人が望みまたなしうるすべてのことに対するその喜びを、深く邪推することである。 曙光 80

どんなことでも、それを面白いこととして笑ってしまうことができます。それが悲劇の哀愁であっても、悔しさであっても絶望であっても、笑ってしまうことはできるはずです。

勤め人時代、職場の先輩二人とお好み焼き屋に行った時のことです。

「○○さんって、犬に似てますよね」

と言ったところ、

「どういう意味や!」とキレられたことがあります。

僕としては、犬顔、猫顔、キツネ顔、タヌキ顔、ヘビ顔、カエル顔といった、単なるそういった印象の中での「犬に似てますよね」という意味だったのですが、なぜかキレられてしまいました。

犬を蔑視しているのか、それとも植物の呼称における「犬蓼(イヌタデ)」のように、「似ているけど違うちょっと決まりきっていない品種」のような感じで捉えていたのでしょうか。

まあ、そういう感じでキレられた思い出も、面白い思い出です。

別に無理に笑おうとしなくても、何か感情が高ぶるような出来事というのは視点によって笑いのタネになります。

先日の第1000回投稿記念で書いたような、「相談しに行ったらその人もだった」というような流れも、その絶望感が面白く笑うことのできるような話のはずです。

こちらが笑うと怒る人

よくこちらが笑うと怒る人がいます。

悲しいですねというような同情を欲しているのか、それとも「その状況を経たあなたはすごいですね」とでも言って欲しそうにしています。

しかしながら、そうした人は永久に幸せになることはできません。

笑うに越したことのないようなストーリーの中で、わざわざ悲観的な方を採用しているのだから、致し方ありません。

ただ、僕としてはそんな人を見ても、その人が怒っていること自体が面白いのです。

イタズラの基本

イタズラの基本は、大人の人達を怒らせることです。

相手が怒れば怒るほど成功なのです。

ということで、相手が怒れば怒るほど爆笑です。

と、わざわざそんなイタズラはしなくても構いませんが、相手が怒り出したからといって、立ち位置を変えず、ずっと笑っておけばいいのです。

同情的なキリスト教徒 曙光 80


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