同情されること

未開人の間では、同情されることに道徳的な恐怖心が抱かれている。同情されると彼らはすっかり徳を失ってしまう。同情を与えることは、軽蔑することと同じくらいのことを意味する。 曙光 135 序

経済的に貧困国とされている国の人達でも、金銭援助をされることに対しては少し抵抗感を持っているというケースがあります。

もちろん実質的にはありがたいはずですが、同時に自分たちの非力さを肯定することになるからです。

「同情されること」は、何かしらの弱さや非力さ、何かしらの悲惨さや不幸を認め、肯定することになるという構造を持っています。

同情とは、相手に共感し、まるで自分のことかのように同じような感情を感じることを意味し、とりわけ悩みや苦しみ、負の感情に共感し同調することを意味します。

そして「同情される」ということは、時にそうした「悩みや苦しみ、負の感情、そして自分の弱さや非力さを肯定してしまう」ということにもなります。

同情は非力さを肯定してしまう

同情されることに関して、貧困国においても「資金援助への抵抗感」を持っていたりしますが、その要は問題を問題だと確定させ、自己評価としての非力さを肯定してしまうという側面があるという点です。

これはもっと規模を小さく家庭などでも同じような構造を持ちます。

例えば、大人になっても小遣いを貰っているという状況は、なんだか受け取り手の非力さを象徴しているかのようにも見えます。

「子供が金銭面で困らないようにと、生前に長年通じる不動産収益モデルを構築しておく」というケースでも同様です。

こちらも貧困国の資金援助のように、もちろん実質的にはありがたいような構造ですが、同時に「あなたには力がなく、困っているだろうから援助をしてあげよう」と無意識に非力さを刷り込まれていくような構造になっています。

同じ物、同じ金額を渡す場合でも、その奥にある動機によって、相手を侮辱し、相手自身の自己評価を下げてしまう事になりかねません。

実質的には、金銭面などでプラスにはなっていて、金銭で解決できることに対しては恩恵がありますが、それと引き換えに「非力さを肯定することで自己評価を下げてしまう」ということが起こっているという感じです。

非力さを肯定することを拒み受け取りを拒絶する

そして、逆にこうした「自分の非力さを肯定してしまうのではないか?」という抵抗感によって受け取ることを拒み、様々なチャンスを逃してしまう人もいます。

基本的に受け取ること自体は自分にとってプラスのはずです。

仮に自分が100億円持っていても、親が1万円くれるというのであれば、現実的にはプラスです。

そこまでいかなくても、ある程度の年齢になってから、何故かお金をもらうということがあった場合、一応実質的にはプラスです。

しかし、その奥にある心理によって、無意識の領域の心理によって、それはプラスにもマイナスにもなりえます。

人によっては、受け取りによって自分の非力さを無意識に肯定し、人によっては、そうした非力さの肯定をしまいと、受け取りを拒絶するということがよく起こっています。

受け取りつつも非力さの肯定をしない

ベストなのは、受け取りつつも非力さの肯定をしないことです。

そして受け取りという行動をもって送り手を喜ばせてしまうことです。

「同情される」ということは、時に問題が問題であること、自分の弱さ非力さを肯定してしまうことになりかねないため、己を高めようとする気持ちがある時は、実質的な受け取りの方が理にかなっているのにそれを拒絶したりしてしまいます。

そして一方で同情した側は同情をすることによって己を高めるということをしている場合もあり、例えば物を贈るということであっても、実質的なコスト・金銭的負担はさておき「贈ったものを受け取ってもらえること」が嬉しかったりもしています。むしろその喜びがコストの痛みを越えているから物を贈ったりしているということになっています。

だから、受け取ることは相手を喜ばせることにもなります。

しかし時に「受け取ることは同情されることであり、受け取ってしまうと非力さを肯定してしまう」と思って受け取りを拒否してしまう場合もあります。

そういうわけで、「受け取りつつも非力さの肯定せず、受け取りという行動をもって送り手を喜ばせてしまう」というのがベストです。

こうしたことに関しては、水商売の人はそれ以外の人よりも長けているでしょう。

受け取りにに潜んだ毒

ただ、それを自意識過剰に、そして誰かに対して意図的にお願いしたりするのは貪りになります。

同情されることを同情されることと思わずに「受け取りつつも非力さの肯定せず、受け取りという行動をもって送り手を喜ばせてしまう」ということができるのはいいですが、それを意図的に行って、自分の物理的、社会的な都合のよさに意識がとらわれていくと、また別の側面で問題が生じてきます。特に若さや顔で「売っている」と思っているのならば、それは知らぬ間に毒を形成していきます。

綺麗さやかわいさといったような何かの条件がないと、そうしたやり口は使えなくなるという一種の恐怖心を作り、若さや顔への執着を作っていくからです。

それらは追々、自分を苦しめる原因になっていきます。

同情の中の幸福

同情と共感

同情されること 曙光 135

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ