合理化や最適化が機械にできる限界

AIがすごいとか、少し前であればIT化がすごいとか、そうした事が世の中でよく囁かれますが、「合理化」や「最適化」が機械にできる限界であり、結局大切なことは文語ではなく口語でないと何ともならないというようなことについて触れていきます。

哲学カテゴリでも会社経営と商いカテゴリでも良かったのですが、抽象的な感じなので雑記にしておきます。

まず最初に、新世代に対する旧世代的な後ろ向きの考えではないということに注意してください。

精度を高めることと時短

ぼんやりとコンピュータなどについて考えた時、いろいろな技術が進めば、情報抽出の正確性のような精度を高めたり、精度を高めることでかかる時間を短くするということはもっともっと進んでいきますが、結局は今ある中で最も合理的で最も最適化されたものを最速ではじき出すということくらいしかできないような気がしてなりません。

もちろん、新しい何かが生まれれば、新しい可能性が開いていきます。

インターネットができてインフラも整ったからこそ、それがない時代であれば一生会うことのなかった人とコミュニケーションを取ることもできますし、現に今本ブログにやってきている人が僕のことを知ることもあり得なかったでしょう。

そうした技術の進歩はいいのですが、それらは世界中の天才たちの頭脳や資金を提供した人達が生み出したものであって、機械が生み出したものではありません。

ネットの情報

まとめサイトなどにしても、元々誰かが掲示板に書き込まないと、元となる情報が得られません。

検索エンジンにしても最適な答えをリスト化してくれますが、誰かがデータをネット上に出してくれないと元も子もないのです。

で、ここ数年で爆発的に増えたインターネットメディアサイトみたいなものの記事をよくよく見ると、ただ単にネット上に転がっている情報を編集しただけであり、読みやすい点や体系付けられている点の付加価値はあったとしても、何かの情報を付加価値として追加しているものではありません。

いいところ低レベルなライターのコメントくらいです。

で検索エンジンはそれらの情報をさらに機械的に評価して、最も優れたページを表に出そうとしています。

ということで、情報の精度の高さなどを基準として、より手間を掛けずに目的となる情報にたどり着くということの手伝いはできても、新しい何かを作っているわけではありません。

これは、マーケットイン的であり、現状の中から最適なものを選ぶという方向性です。

文語体の記述

機械学習の得意とするところは、文語体の記述を対象とすることです。

口語体のメタファー的な価値については、おそらく計算することができません。

文語体で正確に記述され、定義されていれば、その中から最適なものを選ぶことができますが、口語体の文章の中に秘められた価値はおそらく判定することができません。

その代わりに人々の評価を参考意見としますが、その人々のレベルについては判断が難しいところがあります。

社会においても、全員が100%の意見を表に出すわけではなく、一部のうるさい人、声の大きい人だけが、ガンガン意見を言っているだけである場合もよくあります。

つまり、例えばインターネット上の評価が、文語体の記述自体の価値とは別に、内容の抽出と持つ意味がはっきりしない口語表現の価値を測る上で一つの指針となったとしても、そうした評価をすること自体が一部の人達に限られているため、正確な指針とはなりません。

口語体でしかできないこと

新約聖書にしても仏教経典にしても、文語表現は禁止され、口語表現しかダメだとされています。

「私は例えてしか話さない」

ということになっていたり、

対機説法としての会話しか掲載されていません。

その理由はすごく簡単で、文語体で厳密に定義しながら記述してしまうと、その言語に縛られてしまうからです。

会話の中にある印象、たとえ話の中にある隠喩にこそ本質があり、それは明確に言語で表現ものではありませんし、はっきりと言語でガチガチに表現してしまっては本質から外れてしまいます。

例えば、愛しい人に抱きしめられた時の感覚を非常に文語的に縛って厳密に定義してしまえば、脳波とかそのあたりの数値が「〇〇から△△の間の状態」でないと、定義から外れる、というようなことが起こります。

じゃあ、その状態の期間はどれくらいの時間であり、それが断続した場合はどうなのか?というようなことすら文語で記述する必要が生じてしまいます。

愛しい人の定義も厳密にしなくてはなりませんし、どれくらいの密着をもって「抱きしめられた」とするのかも定義しなくてはなりません。

そのようなことにあまり意味はありません。

ということで、厳密に定義され論証がされていないと前に進めないということが起こってしまいます。

しかし何にしても結局詰まるところは「人を幸せにしよう」というのが目的です。

であるのならば、言語の縛りによる迷走を避けるほうが圧倒的に理に適っているのです。

そしてそうした分野での価値は、機械には測れませんし、機械が新たに生み出すこともできません。

機械の価値

対象が文語表現の内側にあるものであり、かつ、それを合理的に最適化すること、それくらいしかできないのです。

しかしそれにはそれで価値があります。

元々機械というのは、既に決まっているような目的、目標に向かうときにその時間や手間を効率化するためにあります。

手作業では時間がかかるので、機械でできることは機械を使って時間を短縮する、ということです。

脅しのようにAIによって仕事がなくなるみたいなことを言う人がいるようですが、そんなことは洗濯機の登場と同じようなことなのです。

洗濯機の登場で「仕事がなくなる」ということが問題になったのではありません。

「サボっていると思われる」

という不安感が問題だったのです。

機械と電気が代わりにやってくれるのだから、あとは余裕ができた時間でより素晴らしいことをすればいいのです。

そうしたものを否定するということは、農耕から産業革命からコンピュータの登場まで全てを否定することになります。

否定するなら今すぐ動物化することです。

ということで、そうしたものの恩恵は受けるだけ受ければいいはずですが、やはり機械には限界があります。

エネルギーの獲得にしろ精度の高い情報の抽出にしろ、そうしたものの手間を削減し時間も短縮してくれますが、それはそこ止まりです。

それはそこ止まりということが理解できないと、好きな人と恋仲になる前に、履歴書にかける肩書を増やそうとするような人になってしまいます。

つまり、そんな客観的データとしてのスペックはあくまで文語体の世界です。体感ベースの世界にそのようなものは通用しません。

国家資格を取ろうが取るまいが、目の前の動物は態度を変えません。態度が変わるとすれば、意識の状態がどうあるかという部分です。

それを文語ベースで最適化することはできません。

言語自体に価値があるのではなく、言語に紐付いた体感にこそ価値があります。その体感領域は、言語を用いたとしても口語で表現されるメタファー領域です。それは機械でどうこうできるようなものではないのです。

 


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