労働の讃美者

「労働」が称賛され「労働の祝福」について倦まず語られる場合、私は公益的であって個人的でない行為が賞讃される時と同じ底意を見てとる。あらゆる個人的なものに対する恐怖という底意を。 曙光 173 前半

なぜ個人的な利益よりも公益的なモノのほうが評価されるのか、それはそれを判断している人としては、相手の個人的な利益は自分の利益に一切つながらないものの、公益的なものであれば少しは自分の都合に合う可能性があるから、というようなものです。

結局は判断者の「個人的な利益」をベースに考えており、それを無視した純粋な公益などほとんどありません。

どちらかというと学者や評論家よりの人が自分に関係のないような話時にやや公益的になることはありますが、それすらも自らの心情に合致しているかというようなことが含まれていないとも言い切れません。

そういう意味で、自分以外の「労働」に関して直接間接問わず賞賛している場合は、やはりそういった自己都合がどこかに含まれています。

公益とルサンチマン

それは別に構わないのですが、公益か誰かさんの個人的な利益かということを対比した時に、「誰かさんの個人的な利益」に対する怨恨感情のようなものを感じるのであれば、それは本来ナンセンスなものであり、ルサンチマンの種として取り扱われても致し方ありません。

なぜならば、関係がないからです。

祝福をする必要もありませんが、僻んだり羨む必要もありません。

なぜなら関係がないからです。

「公益的であるべきだ」という考え

そういった時に「公益的ではないからおかしい」とかそういうことを言ってはいけません。

「公益的であるべきだ」という考えは、一見すごく美しく見えますが、「少しは自分にも分けろよ」という縋り集りの要素が含まれています。

公益的であることにたいしてありがたみを感じるのはいいですが、公益的でないことに対して「ちょっとは公益を考えろ」というのは、「ぶら下がり要素」があるということです。

価値や位を定めること

根本的に資本主義には欠陥があります。

スタートを一律にできないことです。

しかし、社会的な地位を主軸になどする必要はありません。

地主思想を持った人が、親の遺産で不動産収益を上げて、「自分は客だ」と偉そうにしていても、丁寧に扱う必要はありません。

資本主義の最大の欠陥は、お金を持っているかいないかで、何か価値や位を定めてしまうことです。無駄に価値をつけ、その価値で人を相対的に図り、優越感と僻みを生み出しています。しかしそんなことは虚像です。

価値基準の内側の「渇望」と「束の間の満足」

価値や位を定めること自体が、苦しみの原因です。

そういった価値基準に縛られながらだと、いつまで経っても苦しみから脱することはできません。なぜならいくら稼ごうが、その稼いだもので消費をしようが、それはその価値基準の内側の「渇望」と「束の間の満足」という錯覚だからです。常にマイナスに陥る根本原因を保持してしまっているということです。

最大の合理性をもたらすための、「システム」が主軸になってしまっているということです。「使うはずの道具に使われる」という構図になっています。

労働の讃美者 曙光 173


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