力の感情

次のことはよく区別するがよい。力の感情をまず獲得しようとするものは、あらゆる手段をとらえ、その感情を養うことを恥としない。しかし力の感情を所有しているものは、その趣味にひどく選り好みがあり上品になっている。彼が何ものかに満足することは珍しい。 曙光 348

なんだか「力」という字を見ると、たいていは「社会的な力」のことなのだと世間ではすぐに想起されるのでしょうか。

今までずっと社会目線でしか考えてこなかった人には当然かもしれませんが、「力への意志」とか「権力への意志」とか言われる場合の「力」はそういった社会的権力などのことではありません。まあニーチェの用語的な話にはなりますが。

そういうわけで「力の感情」といっても、支配欲のような、はたまた権力と言われるようなものの感情ではありません。

そういった社会的な、誰かと誰かは「同じ世界にいるのだ」という錯覚から抜け出さないと、ニーチェの「力」すら理解はできず、誤解のまま終わってしまいます。

「『権力への意志』なんだから、もちろん生きていく上で権力を欲するということだろう」、という誤解をされている方がいれば、ますは「事実は存在しない。存在するのは解釈だけある」といった旨の彼の言葉を念頭に考え直した方がいいでしょう。文字通りニーチェの「権力への意志」に載っています。

この点は少し学術的になってしまうので省略しますが、「力の感情」の詳しい意味についてはニーチェの原典を日本語訳ででも精読すればわかることです。

何となく「力の感情」という言葉を雰囲気で捉えて、カッコをつけてしまう、これは新約聖書を1ページも読んだことのない人が「メリークリスマス」と言っているのと同じことです。

ルサンチマンを含まないニヒリズム

ルサンチマンも、ただの弱者の怨恨感情ではなく奴隷精神による「解釈変更」です。強者に対する弱者の僻みの延長、僻みの感情を昇華するための思考上の解釈変更です。

では何のために解釈変更するのでしょうか。

何かが起こるときには何かの原因があります。

人が何か意識の上でも行動を起こすとなれば、その手前には「衝動」があります。

そういった意味で紐解いていくと、「力への意志」の正体がわかります。

そんな中で、「ルサンチマンを含まないニヒリズム」と言ったものが見えてくるでしょう。

さて、ニーチェの話はここまでにしましょう。ニーチェは愛すべきバカ野郎であり、僕はニーチェマニアではありませんから。

力の感情 曙光 348


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