「利己的でない!」

あの人は空虚であって充実することを望んでいる。この人は満ちあふれていて空になることを望んでいる。― 双方とも、そのため彼らの役に立つ個人を求めるように駆り立てられている。そしてこの過程は最高の意味で理解されたとき、どちらの場合も、愛、という一語で呼ばれる。― 何だって?愛は利己的でないものであろうか? 曙光 145

利他精神を賞賛しようが、どこまでいっても利己的でありつつ、利己的であることを突き詰めると利他的にもたどり着く、というのが本当のところです。

世間で語られているような利己的や利他的はいわゆる二元論になっていて、どちらか一方しか選択できない、というイメージがあり、いいところ痛み分け的な折衷案くらいのイメージになっています。

ただよくよく考えてみると、利己的と利他的が二元論化される前提にあるのは分離です。

そしてその分離には「私」という区切りがあります。

そこで区切りがある上で利他的ということを考えた場合にはどうしてもそこから「私」の内側が切り離されがちになります。

逆に利己的であると「私以外」が切り離されることになります。

そういう感じで世界を認識していると、あれとこれがバラバラになりますが、よくよく見渡してみると、私が私だと思っているものも私以外のものが集まって勝手に活動を行っているだけだったりします。

この「心」は結局それらを含めた全体をただ「この私」のようなフィルターを通して受け取っているにしかすぎません。

そしてその受け取りも、瞬間瞬間で状態が変わるので普遍的ではないのです。

この私が理解する

何かを理解し、何かを達成しようとする時、そこには「私」があるはずです。

カルトっぽい表現をすれば「真理を理解したい」という場合にも「この私」が理解したい、と思っているはずです。

「最年少上場!」などと叫んでいる人たちも、「この私が成功者(笑)となって、豪遊したい」という感じで、主体の変化を求めているはずです。

「この私が理解する」ということ自体が迷妄だということをどうやって理解すればいいのでしょうか?

主体そのものが朧気な幻影であり、本質としてはそこに分離はないということをどうやって「この私」が理解するのでしょうか?

そういうわけで、言語的・論理的・哲学的な論証を求めれば求めるほど「この私が理屈を理解しようとする」という罠のうちに入ってしまいます。

だから言語を超える必要があるのです。

睡眠から目が覚める時に理屈や理解は必要ありません。

「起きるということはどういうことか?」「起きるためにはどうすればよいか?」ということを理解できなくても起きるときは起きます。

それと同じようなことです。

「利己的でない!」 曙光 145


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