優越への努力

優越感を刺激するものに対する批判への批判としてルサンチマンが使われたりします。つまり弱者の怨恨であり、「僻みだ」と居直るようなことです。

優越に対する批判に対して「それは僻みである」という批判を繰り返すというような感じですが、そういった使われ方もあたっていることはあります。ただ、これは水掛け論であり、「見栄の塊だ」という批判への反論が「僻みだ」というのも、構造上決着がつきません。

「僻みである」ということに対する批判も可能であり、さらにその批判に対する批判も可能であるからです。

優越感を刺激するもの

優越感を刺激するものとして、経済基準で言えば資産・高級品や階級、資格や出身校のブランド価値的なもの、果ては住んでいる場所や生まれた世代まで、それぞれの基準に応じて様々な優越感の種があります。自分は強者だという誇り(というよりも傲り)を支えるもの、自分は弱者であるという怨恨感情の種となるようなものです。

では、優越感を刺激するものを保有することが正しいのか、となるのは毎度おなじみアイツの二元論化です。言ってしまえば原因として勝手に「優越感を刺激するものだ」という属性をつけていることが発端です。

しかし、実際にその目的、つまり優越感目的で保有しているかはすぐにわかります。褒められて喜んでいるようでは、本当に優越感のために高そうなものをつかっているでしょう。利便性ではなく見栄のために使っているということです。

優越感を欲するのは自尊心を軸にしているから

優越感を欲するのは意識的、無意識的問わず、自尊心を軸にしながら生きているからです。だからといって、このことを根拠に相手を「下に見よう」とすることも、まだ自尊心を軸にした攻撃であるということになります。相手を下げて相対的に自分を持ち上げようとすることですから。

ということは、優越感を刺激するものを非難することは「僻み」なのか、ということに結論づけようとするのもアイツです。さて、優越感の基準はどうやって決まっているのでしょうか。その優越感を非難する基準はどうやって決まっているのでしょうか。

さあ少し論理の迷路に入ってきました。

相手を非難することなく本質で選べ

相手を非難することなく本質で選べということになります。本質で選べといわれて、「本物の高級品の革を使う」とかいうのはまた違いますから、自尊心主軸で考えるなということです。ひとまずは「人のことはほっとけ」です。

そして「自分のことすらほっとけ」です。かといって何かを拝んではいけません。

セイントおにいさんはある一国の王に「この世で一番贅沢なのは私ですよ」といったそうです。

○○だから世界一贅沢だ、の○○に入るのは、物やサービスではないのかもしれませんね。世界一の最高級品を使うことでも得られない贅沢は、「どうせ物によって自分の心が動いている」、という構図をよくよく考えれば理屈だけでもわかりそうなものです。モノの問題ではなく、受け取り手の問題です。つまりは、先の議論は、一種のナンセンスです。

優越への努力 曙光 113

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ