倫理と愚化

風習とは、利益になるあるいは害になると思われるものについての、昔の人間の経験を代表する。

― しかし風習のための感情(倫理)は、ある経験そのものに関係しないで、風習の古さ、神聖さ、明白さに関係する。そしてこれによってその感情は、人が新しい経験を重ね、風習を修正することに反対の働きをする。

倫理は人を愚化する。

曙光 19

株式会社は利潤の追求を目指しますが、利潤が最大化するように働かせるために組織化し、階層化したりします。

その組織化・階層化の最大の目的はあちらこちらで個性を出されるより、ある安定的な手法、明確な意思決定基準や判断機関の構築などによって、物事を簡易迅速に行うためです。

全員がすべてのことをできるという状況よりも、それぞれ作業を細分化し、専門的に行ってもらった方が生産効率が高まるというような点ですが、それは時に手段が目的となり手段が意志となります。結果、コスト削減という点では合理性を持つものの、より高いクオリティのものは生み出せなくなるという事が起こったりします。

倫理と愚化ということで手段が意志となる面から進めていきます。

手段が意志になる

本来は何も決まっていおらず、また何が正しいのかもわかりません。しかしながら、人は原則的に自発的多発的問わず、「決まらない・決められないと動けない」という性質をもっています。

三段論法のような逐次的な思考を為しているため、前提となる部分が解決しないとその先の課題に取り組むことができないというような感じです。

そして、議論している最中もエネルギーは常に消費しているため、栄養を摂るという行動をしないと死んでしまいます。ということで生き物としては停滞をし続けるわけにはいきません。

そこで得られた「栄養獲得のための経験」、それ自体はひとつの手法としてただ存在しています。ここで問題になるのは、その手法のある部分だけに着目して勘違いが始まることです。

合理的手段としての命令系統

命令系統というのはひとつの手段であり、利潤を最大化するための意思決定や行動の迅速さを確保するためにありますが、そのためのヒエラルキーの上位にいることを「偉い」と思ってしまうようなことです。

そして、偉いことを条件に、その他の分野に関しても、同じような行動をとってしまうことがあります。

確実にそのヒエラルキー外にいる人に対しては、逆にそれが通用しないことを感じていつもより弱気になったりします。これは体育会系でよくあることです。

「意志」に反する経験を排除

また、その手段自体が持っているある種の「意志」に合致しない経験を排除するといったようなことが起こります。手段にはそのひとつ高いところに「目的」のようなものがあったはずですが、目的よりも手段が上位に立ってしまっている、という現象はたくさんあります。

わかりやすい例で言えば、仮に不幸の感情が押し寄せている時に、「幸せになりたい」と思い、いろいろ探してはみるもののそれを解決する手段が見つからず、結局ある新興宗教にハマったとします。

宗教の教義を盲信することで、「不幸である」という「感情」がある程度抑制されたりしますが、今度はその感情の落ち着きを維持するために、その新興宗教の理念などに合致しないものは経験として排除していくというようなことです。

宗教の教義に合致しないものに対しては拒絶が起こり、その宗教の領域から外れる観念を持つ人には排他的になるという感じです。

その教義を信仰することが、自分の精神の安らぎの条件となっているため、自分の安らぎを侵されまいと、その他の観念を排除していくようになります。

これは、宗教だけでなく主義や思想のようなものであれば全てに通じます。

幸・不幸自体がある意味で虚像

少し語弊がありそうですが、不幸であるという認識や感情を「無くそう」というような試み、またその方向性自体は結構ですが、そういった目的に対しての手段に、結局足元をすくわれるというような構図になっています。

本人が幸せならそれでいいじゃないか、というような意見もあります。しかし断言できるのは、幸・不幸自体がある意味で虚像です。無形であり、あってないような一種の感情であって、それは常に変化しているものです。

そういう浮き沈みに、いちいち一喜一憂しないような位置があります。何かの行動などを条件化して幸福を追い求めている限り、おそらくそれには気づくことができません。

念仏三昧のような手法がありますが、あれも催眠に近いような状態で、脳をバグらせているだけ。感覚はつかめるかもしれませんが、次元の低いお話です。その間、自我機能が低下して、モヤモヤが消えたように思うだけで、しばらく経つとまた元通りです。

しかし、そんなことは関係ありません。本人がどう感じていようが、幸・不幸は元から存在していません。強引に言えば、状況がどうあれ、ある意味でその人は幸せなはずです。

倫理と道徳が陥る罠

倫理と愚化 曙光 19

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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