二人の友人

友人同士がいた。しかし彼らは友人ではなくなり、どちらの側からも同時にその親交を解いた。一方は、自分が誤解されすぎたと思ったからであり、他方は自分が知られすぎたと思ったからである。―しかし両方共その際間違っていた!― 彼らのうちどちらも、自分自身を十分には知っていなかったからである。 曙光 287

 ニーチェは時折、古典落語のような事を言い出します。ニーチェに限らず古代ギリシャの哲学者達もそのような傾向があります。とんちが大好きですから、比較的容易な入門書のような本で気楽に読むと、下手なお笑いを観るよりも面白おかしかったりします。

さて二人の友人です。

思考タイプと感情タイプ

繊細な人と図太い人がいるように、思考タイプと感情タイプがいます。どちらか一方に大きく偏っているという場合もありますが、そんな極端な例はあまりなく、だいたいどのような比率かというようなことです。

オカルティックなシンクロニシティ(共時性)や集合的無意識で有名なユングなんかは、思考と感情という軸、感覚と直感という軸というもので、なんとか心を捉えようとしましたが、ここでは「思考優勢の時は感情は働きにくいというようなことが言いたかった」、ということにしておきましょう。

この両極のタイプの友人に挟まれた時の苦悩というものです。

ベースというポジション柄もありましょうか、だいたいギターとドラムに挟まれて、ギターとドラムが喧嘩をしだす、というようなことです。

今までこの手でたいてい仲裁に入っていました。

一方からは論理的に、一方からは感情的に訴えかけられますから、非常に困ったものです。

その時は、論理的な方に、論理的にストーリーを考えて、頭の中で描いてもらいつつ、感情を理解してもらう、一方、感情的な方には、体験やたとえで感じてもらいつつ、それと同じ理屈だということに気づいてもらう、というような手法で、翻訳ソフトのようなことをやっていました。

彼らは英語と日本語で喧嘩しているようなものですから、たまに意味は分かり合うものの、たいていの意味はわかっていない、というような喧嘩をしています。

そこに変換ツールのような役割を担うことによって何とかやりくりしていましたが、やはりその二人が仲良くなることはありませんでした。

その時は多少の苦悩はありましたが、考えたり、感情を味わうだけでなく、「変換する」という訓練として、非常に良い訓練になりました。

どんな時でも、某かの収穫はあるものです。

どんな現象であっても、それを良いものに変えられるか否かは、心持ちひとつです。

「お前らの喧嘩など知らん!二人で勝手にやっておけ!」というのは簡単であり、別にそうしてもらってもいいことです。

「大変だ、自分が何とかしなくては」、と言うのは憂いであり、事の進み具合によっては一種の危険性を認めているという意味でリスクになります。

別にそうしてもらってもいいことなのですから、仲裁がうまくいかなくても、究極的にはどうでもいいことです。

ということは、リスクがリスクではない、という「自らは憂う必要がない」という事柄になります。

まだ意識を向けるべきは、その二人の間柄ではなく、自分と、各々の友人との関係です。

それすら究極的には、どう転んでもいいことです。

そうなると、どこにも憂いはありません。

二人の友人 曙光 287


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