不遜ゆえの悪

無駄に遜ることも、とどのつまりは「」であり、何かに上下、同列を考えてのことです。上下を意識することのみならず、同じだと考えることも結局は何かの基準をもって選び分けているのですから。もういう判別はもう手放したほうがいいでしょう。特に人に主張しても結局は「だからどうした」です。

不遜ゆえの悪ということで遜ることと「図々しいため相手が先に折れる」ということについてでも触れていきます。

不遜(ふそん)とはもちろん遜(へりくだ)らないことを意味しますが、単に理性を持ちながらそれを手放せるのと、根本から理性がなく、感情の暴走のまま生きているのとは似て非なるものであるというような点について書いていきましょう。

不遜ゆえに

驕り高ぶることも無駄に遜ることも変ですが、それをしないことは「フレンドリー」として評価されたり、はたまたひどいトラブルを招くことがあります。

特に傷つけるつもりがなくても、傷つけるつもりがないのでストレートに言ったりするわけですが、傷つけるつもりがないことを相手もわかっているので、相手は怒ることもできないという場面があります。

それが二者間での会話なら特に問題ありません。「そんなに気にすることではない」ということを相手が気付けるかもしれないからです。

思ったことをすぐに口にする人

しかし、大勢の前ならば、その言葉を発した人はなんとも思っていなくても、その会話を傍で聞いている人は冷や汗が出たりします。

自分と相手だけのことを考えての会話は結構ですが、前しか見ずに運転するおばさんのように、時にひどい局面をむかえることがあります。

「そんなに気にすることではない」ということを相手が気付けるかもしれないといいつつも、こういう類の人は、思ったことをすぐに口にするので相手にしてはいけません。

たいていひどい偏見を持ち、全然論理に一貫性がなく、感情のままに生きています。

理性に縛られることも馬鹿げていますが、理性を持ちながらそれを手放せるのと、はじめから理性がなく、感情の暴走のまま生きているのとは似て非なるものです。

「図々しいため相手が先に折れる」という手法

この手の人たちは、図々しく、人の説明も理解できないため、相手が先に折れるという手法で生きてきました。ほとんどの人は相手にしたくなくても相手が図々しく図太いため、かわすことができずに折れてしまいます。

これは相手が正しいというわけではありません。がめつく図々しいから「相手にするのが面倒くさい」ということになって折れてしまったというだけです。

しかしながら実質的には図々しい方の意見が通っているというなんともやるせない構造になっています。

「がめつい母」と一緒なら変に強気な娘

以前フリーマーケットに参加した時に、ありえないほどの値切りをしてくる母と娘がいました。図々しいのレベルを超えるほどの酷さです。

「あきらめろ」などという言葉を平気で使います。ただ単に消費だけをして活きてくるとこういうタイプの人間が出来上がります。

ありえないほどの値切りなので、それはできないと答えると何度も何度も押してきて、あげく「あきらめろ」などと言ってきます。図々しさは限界領域です。

そしてこういう「がめつい母」と一緒なら変に娘は強気になります。母がいないと急におとなしくなるようなタイプです。

母も娘の手前、「強い母」をアピールしたかったのでしょうか、かなりしつこかったのですが、こちらは折れませんでした。

耳をもたない賢明さ

いくら吠えようが、吠えることしかできない

あの訪問先を思い出しました。まるで遠くから吠えるだけの犬です。いくら吠えられようが、そんなことでは身体も心も一切ダメージはありません。

吠えることしかできない人たちがいくら吠えようが、ただ吠えるているだけです。

絶対に折れてはいけません。こういう人たちは感情のまま、強欲に生きています。相手にしてもいけません

そして相手にしなければならないような時でも、向こうの要求を飲んではいけません。きっぱりと断ることです。この手の人は、いくら吠えようが、吠えることしかできないのですから。

うぬぼれの強い人々

不遜ゆえの悪 曙光 156

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

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